な、ほやほやの焼麺麭《クニーシュ》にバタをつけたやつを卓子《テーブル》へだしたので、一座の衆は期せずしてそのまはりへと集まつた。拳《こぶし》を突きつけようとしてゐたフォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの手も、つい焼麺麭《クニーシュ》の方へ差しのばされて、皆の衆は例によつて例の如く、主婦の技倆《うでまへ》の鮮やかさを口々に褒めそやしはじめたものぢや。ほかにもう一人、語り手がゐたが、その人は(どうもそれを寝しなに思ひ出すのは、ちと具合が悪いけれど)実に身の毛もよだつやうな怖ろしい話をして聴かせたものぢや。だが、わたしはわざとその話はこの本へ載せなかつた。このうへ堅気な人たちをおどかしては、皆の衆がこのわたしを鬼かなんぞのやうに怯ぢ怖れだすかも知れないからぢや。もし神のお恵みで新年まで生きながらへて、もう一冊の本を出すやうなことにでもなれば、その時こそ、あの世から迷つて出てくる亡者だの、むかしむかし、この正教の国にあつたくさぐさの不可思議な出来ごとだのの物語で、少しばかりぞうつとさせて進ぜてもよろしい。それと一緒に、ひよつとしたら、この蜜蜂飼が孫たちに話して聴かせたお伽噺もお目どほりをするかもしれない。ちやんとして聴くなり読むなりして頂けさへすれば、選り出すのがちと億劫ではあるけれど、こんな本の十冊やそこいらの話の種にことは欠きませんのぢや。
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キッセリ ジェリイか葛湯に似た一種の料理。
ポルタワ 南露ポルタワ県の首都、ドニェープルの支流ウォルスクラ河の沿岸にあり、一七〇九年北方戦役に際し、小露西亜に攻め寄せた瑞典軍を彼得一世が撃破せしところ。
アルシン 露西亜の尺度――〇・七二米に当る。
カフターン 一般農民の用ゐる外套様の長上衣。小露西亜人の用ゐるスヰートカに対応するもの。
馬鹿握《ドゥーリャ》 拇指の頭を食指と中指の間から出して握つた拳、これを相手の面前へ突き出すことによつて侮蔑嘲弄を表はす。シーシュカともいふ。
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 さうさう、もう少しで、いちばん大切なことを忘れてしまふところぢやつた。わたしのところへ諸君《みなさん》がおいでになるのだつたら、国道をディカーニカ目ざして真直にやつて来て頂けばよろしい。手前どもの部落《むら》がちつとでも早くお分りになるやうにと思つて、わざわざディカーニカの地名《ところな》を本の標題に置いたやうな次第でな。ディカーニカといへば、もう百も御承知のことであらう。それあもうその筈で、あすこぢやあ、家屋《いえ》だつて蜜蜂飼風情の小舎などとはずんときれいで、果樹園ときたら、いやどうも、あなた方の彼得堡《ペテルブルグ》にだつて、あれだけのものはちよつとやそつとには見当りますまいからね。それで、ディカーニカまでおいでになつたら、穢ならしいシャツ一枚で鵞鳥の番をしてをる出あひ頭の小僧つ児に、※[#始め二重括弧、1−2−54]蜜蜂飼のルードゥイ・パニコーの家は何処だい?※[#終わり二重括弧、1−2−55]とお訊ね下され。さうすれば、※[#始め二重括弧、1−2−54]あすこだよ※[#終わり二重括弧、1−2−55]と言つて、その小僧つ児が指をさしてすぐにお教へするでせう。もしお望みとあれば当のこの部落《むら》まで、先きに立つて御案内することでせう。※[#「にんべん+且」、24−15]しお断わりしておかねばならないのは、後ろ手なんぞ拱んで、いはゆる容態ぶつた歩き方などなさるのは、見合はせて頂きたいことで、といふのは、こちらの村道といふやつが、あなた方のお邸の前の大通りみたいに坦・砥の如しとは、ちよつと申しあげかねるからで。一昨年《をととし》のこと、例のフォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがディカーニカからやつて来て、たうとう新らしい馬車と鹿毛《かげ》の牝馬もろとも、崩穴《がけ》へ落つこちてしまつたといふ始末でな、それも自身の手で手綱を捌き、そして時々は自分の肉眼の上へ更に買ひものの眼をおつつけおつつけしてゐたにも拘らずぢや。
 さるかはり、一度お客においで下すつたなら、それこそ、恐らく生まれてこのかた、つひぞ召しあがつたこともないやうな甜瓜《まくはうり》を御馳走いたしますよ。それに蜂蜜なら、請合つて、そんじよそこいらの部落《むら》では金輪際、見つかりつこない飛びきり上等の蜜を進ぜますて。まあ、思つてもみて下され――蜜房を持つてくるてえと、部屋ぢゆうにぷんぷんと芳香がみなぎりわたるといふ始末でな、いや、とてもとても想像することも出来ませぬくらゐ、まるで涙か、それともよく耳環にはめる高価な水晶のやうに、混りつけのない蜂蜜ですぢやて。それから、うちの老妻《ばばあ》が御馳走する*ピローグですよ! それがどんな素晴らしいピローグだか、ひとつお眼にかけたいくらゐで、いや砂糖、まるつきり砂糖のやうでな! そいつを頬ばりだすと、もうバタが唇《くち》をつたつてたらたらと流れだす始末。まつたく考へて見るに婦女子《をなご》どもといふやつは何から何まで実に器用なものぢや! いつか皆さんは茨《いばら》の実を入れた梨の濁麦酒《クワス》だの、乾葡萄や黒梅の入つた混成酒《ワレヌーハ》を召しあがつたことがおありかな? それとも、牛乳《ちち》いりの雑炊《プートリャ》を召しあがつたことがおありかな? いやはや、この世の中にはなんと夥しく、いろんな食べ物がありますことぢやらう! つまみにかかつたが最後、腹いつぱい、しこたま詰めこまずにはゐられませんわい。美味《うま》いものあさりといふやつは、実になんともいひやうのないものでしてな! 去年のことぢやが……。いや、それはさて、わたしとしたことが、何をしやべりこけてしまつたことやら? つまるところは、ただお出かけになつてさへ下さればよろしいので、一刻《いつとき》もはやくおいでになつてさへ頂けばな、さうすれば、もう、逢ふ人見る人ごとに、いちいち吹聴なさらずにはゐられないほどの素晴らしい御馳走をして進ぜまするよ。恐惶謹言
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ピローグ パイに似た露西亜独特の菓子。
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[#地から3字上げ]蜜蜂飼 ルードゥイ・パニコー
[#地から1字上げ]しるす



底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
   1937(昭和12)年7月30日第1刷発行
   1994(平成6)年10月6日第8刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 前篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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