その場でイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの両手をいやといふほど鞭打つた。――いかさま揚煎餅《ブリーン》を受け取つたのはその手で、からだの他の部分には罪がないとでもいふのだらう。それは兎も角、このことがあつて以来、それでなくても生まれつき小胆な彼に、なほさら臆病風が染みこんでしまつたのだ。恐らくこの事件そのものが因を成して、後年、彼をして絶対に役所勤めに入らうといふ望みを起させなかつたものに違ひない――この経験から、誤魔化といふことの難かしさをつくづく悟つたがために。
 彼が二学年に進級して、それまでの簡易釈義書や四則算の代りに、詳細釈義書だの、修身だの分数だのを習ひかかつた時には、年ももう満十五歳になつてゐた。だが、深く進めば進むほどいよいよ学課は煩瑣になるばかりだつたし、ちやうど、父の訃報にも接したりしたので、それからあと二年のあひだ在学してから、母の諒解を得て、P××歩兵聯隊へ入隊した。
 このP××歩兵聯隊は、他の多くの歩兵聯隊が属してゐる類ひとは全く趣きを異にして、たいてい村落に駐屯してゐたにも拘らず、へたな騎兵聯隊などの及びもつかぬくらゐ、素晴らしく景気のいい聯隊であつた。大部分の士官が竜騎兵にも負けず凍火酒《ウィモロズキ》をあふり、猶太人の鬢髪《ペイス》を掴んでは引きずり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。中にはマヅルカを踊る者さへあつて、P××歩兵聯隊の聯隊長は社交の席で人と談話を交はすやうな場合には、いつも口癖のやうに、それを吹聴することを忘れなかつた。『自分の聯隊には、』と、彼はいつでも一言いつては腹を撫でながら、語るのだつた。『マヅルカを踊る者が沢山をりますぢや、いや実に沢山をりますぢや、非常に沢山!』このP××歩兵聯隊の発展ぶりを更によく読者に示すため、士官のうちに、途方もない賭博者《ばくちうち》で、軍服や軍帽から外套はおろか、下緒《さげを》から、まだその上に、どんな騎兵連の間を捜し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つても到底見つかりさうにない下著の端に至るまで、すつかり賭けてしまふといつた、恐ろしい豪傑が二人もゐたことを、つけ加へておく。
 かうした同僚にとりまかれてをりながら、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの臆病さ加減には少しも変りがなかつた。彼は凍火酒《ウィモロズキ》を嗜まず、ただ午餐《ひるめし》と晩餐《ばんめし》の前に火酒《ウォツカ》を一杯やるだけで、マヅルカも踊らなければ、※[#始め二重括弧、1−2−54]銀行《バンク》※[#終わり二重括弧、1−2−55]もやらなかつたので、自然、いつも独りぼつちでゐる他はなかつた。そんな訳で、他の連中がそれぞれ土地の馬を雇つて小地主の家々へ出かけて行くやうな時にも、彼は自分の室にぽつねんと坐つて、ひとり、善良で、もの静かな気性に適つた所作に耽るのが常で、釦を磨いたり、占ひ本を読んだり、部屋の隅に鼠罠を仕掛けて見たりしたが、最後には、軍服を脱ぎ棄てて、寝台の上に横たはるのが落《おち》であつた。
 その代り聯隊ぢゆうにイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチくらゐ几帳面な者はなく、また自分の分隊の指揮が非常に良く行き届いてゐたので、中隊長はいつも彼を模範下士に選んだ。そんな次第で昇進もはやく、旗手の地位を贏ち得てから十一年たつて、少尉に任命された。
 この間《かん》に母の亡くなつた知らせを受け取つたが、母の親身の妹で、彼の幼年時代に乾梨《ほしなし》や、非常に美味しい薬味麺麭などを持つて来たり、わざわざガデャーチへ送つて呉れたりまでしたので僅かに憶えてゐる叔母(この叔母は、母と仲違ひをしてゐたので、その後、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは絶えて久しく会はなかつたが)――この叔母が、もちまへの親切気から、彼の小さい持村の管理を引き受けたといふことを、事の序でに手紙で彼の許へいつてよこした。
 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、この叔母の行き届いた思慮分別を信じきつてゐたので、従前どほり引きつづき勤務につくことが出来た。他の者が彼の地位に在つたならば、これだけの官等を贏ち得ては、さぞかし思ひあがつたことであらうが、驕り高ぶるなどといふことは、まるで彼の与かり知らぬところで、少尉になつてからも、その昔、旗手の地位にあつた頃のイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチといささかの変りもなかつた。この、彼にとつて特筆すべき出来ごとがあつてから四年の後、彼は聯隊と共に、マギリョフスカヤ県から大露西亜への行軍に出発しようとする間際になつて、次ぎのやうな手紙を受け取つた――

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