打ちつけさせんことには。」
「なあに、叔母さん。僕は叔母さんが鳥を射ちに行くとき乗つておいでになる、あの馬車で行きますよ。」
 かういふことで、この話には鳧がついた。

    四 午餐

 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがホルトゥイシチェ村へ乗り込んだのは、ちやうど午餐時《ひるめしどき》であつたが、地主の邸が間近になると彼は少しおぢけづいて来た。その家は間口が馬鹿に広くて、近所界隈の地主の家のやうに茅葺ではなく、板葺屋根であつた。邸内にある二棟の倉庫も同様に板葺で、門は樫材で出来てゐた。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、ちやうど、舞踏会に乗りつけた洒落者が、どちらを見ても自分より優れた服装をした客ばかりなのに、聊か面喰《めんくら》つたといつた形だつた。彼は敬意を表して倉の脇で馬車を停めると、そこからは歩いて玄関にかかつた。
「あつ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチだ!」と、庭を歩いてゐたグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが喚き出した。彼はフロックを著てゐたが、ネクタイもチョツキもズボン釣りもつけてゐなかつた。それでも彼の肥つたからだには余程その服装がこたへるらしく、顔からは汗が玉をなして流れてゐた。
「どうなすつたんです。あなたは叔母さんに一と目会つておいてすぐ様こちらへいらして下さるといふお約束でしたのに、どうして今日までおいでにならなかつたんです?」かうした言葉に次いでイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの唇は、例のお馴染の座褥《クッション》に出会つた。
「どうも家事に追はれ勝ちでして……。今日はほんのちよつとお邪魔に上りました、実は少しその……。」
「ほんのちよつとですつて? そんなことは言はせませんよ。おい小僧つ!」さう肥つた主人が呶鳴ると、哥薩克風の長上衣をきた、いつかの少年が台所から駈け出して来た。「早くカシヤンにさう言つて門を閉めさせてしまへ――分つたか! しつかり閉め切つてしまへつて! そして早速この旦那の馬を軛《くびき》から外すんだ。さあ、どうか中へお入り下さい、此処ではとても暑くて、私の襯衣はもう、ぐつしよりなんです。」
 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは部屋へ通ると、もちまへの小胆にも拘らず、無駄に時間をつひやすことなく、てきぱき事を運ばうと、肚を決めた。
「叔母がその……私に申しますには、何でも亡くなられたステパン・クジミッチの御遺言書とかが、その……。」
 この言葉にグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチのだだつ広い顔がどんな不愉快な表情を現はしたかは、ちよつと形容に困るくらゐである。
「いや、とんと仰つしやることがよく聴えませんよ!」と、彼は答へた。「お断わりしておかなければなりませんが、私の左の耳へあぶら虫が這入りましてね、(あの碌でなしの大露西亜の髯もぢや先生たちと来たら、もう、家ん中ぢゆう、あぶら虫でうじやうじやさせてをりますからね)その気持の悪さ加減といつたら、とても筆紙に尽すことは出来ません。いやどうも、擽つたくつて擽つたくつて。しかし、さる老婆がごく簡単な方法で癒してくれましたよ……。」
「私がお話をいたしたいと思ひますのは……」と、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがわざと余所事に言ひ紛らさうとするのを見て、思ひ切つてそれを遮ぎつた。「ステパン・クジミッチの遺言の中に、その何です、贈与契約書とかがあつて……それが、この私に……。」
「いや分りました、叔母さんがあなたにそれを吹き込まれたのですね。それはまつたく根も葉もないことです! 伯父はどんな贈与契約もしませんでしたよ。尤も遺言の中に何かの証文のことは書いてありましたが、いつたいそれは何処にあるのです? 誰ひとりそれを提出しなかつたのです。かう申し上げるのも、真実あなたのお為めを思ふからですよ。誓つてそれは、根も葉もないことです!」
 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、ひよつとしたら、実は叔母がそんな風に邪推をしたに過ぎないのかもしれないと思つて、口をつぐんだ。
「おや、母が妹たちといつしよにこちらへ参るやうです!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが言つた。「てつきり午餐の用意が出来たのです。さあ参りませう!」
 そこで彼はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの手を執つて一室へ招じ入れた。そこにはウォツカの罎と前菜《ザクースカ》の載つた卓子があ
前へ 次へ
全18ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング