ーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ何某《なにがし》か!……※[#終わり二重括弧、1−2−55]こんな風にその官吏は独りでぼんやり繰返すのだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]ああ! 此処に俺れも出てをるわい! ふうむ!……※[#終わり二重括弧、1−2−55]かうして次ぎにも亦、再び同じ感歎詞を以つて、それを読み返すのである。
 二週間の旅程を経て、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、ガデャーチの手前百露里足らずの地点にある一部落へ到着した。それは金曜日だつた。彼が猶太人とともに幌馬車で旅舎へ乗りつけた時には、もうとうに日は沈んでゐた。
 その旅宿は、田舎の小さい村々に設けられてゐる他の旅宿と何ら異るところがなかつた。そこではきまつて、旅客に、駅馬か何ぞのやうに、乾草と燕麦とをひどく熱心に饗応《すす》めるけれど、もし、旅客があたりまへに、十人並の朝餐が摂りたかつたなら、彼は厭でも応でも食慾を次ぎの機会まで我慢するより他はなかつた。さういふことをよく承知してゐたから、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは前以つて、二|連《つなぎ》の輪麺麭《ブーブリキ》と腸詰の用意をして来たので、かうした宿屋で決してきらしたことのない火酒《ウォツカ》を一杯だけ注文すると、たたきの床へ脚をしつかり埋め込んだ樫の食卓に向つてベンチに腰をおろして、夕餉をしたためにかかつた。
 さうかうしてゐるところへ、馬車の轍の音がしたけれど、その馬車は長いこと内庭へ入つて来なかつた。甲高い声が、この居酒屋をやつてゐる老婆と罵りあつてゐた。『ぢやあ馬車を入れるけれど、』さういふ声がイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの耳に入つた。『その代り、お前んとこで、ただの一匹でも南京虫が俺を刺したが最後、擲りつけて呉れるぞ、誓つて擲りつけて呉れるぞ、このおいぼれ魔法使女《まほふづかひ》め! そして乾草の代は錏一文だつて払ふこつちやないぞ!』
 一分ばかりの後、入口の戸があいて、紺のフロックコートを著こんだ、恐ろしくふとつた男が入つて来た、といふよりは這ひずり込んだと言つた方がよいかもしれない。彼の頭は短かい猪頸の上に泰然自若として鎮座してゐたが、そのまた頸が、彼の二重頤のために一層ふとく思はれた。この男は一見して、些々たることには決して心を労することなく、その全生活が坦々として油の上を辷るやうに滑らかに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]転してゆくといつた人物であることが頷かれた。
「いや、今晩は!」と、その男はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを眺めて、挨拶した。
 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは無言のまま、会釈を返した。
「失礼ですが、どなた様でございましたかしら?」と、肥つた新来の客は言葉をつづけた。
 かうした質問に依つて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、是非なく席を立つて、聯隊長から物を尋ねられる時にいつもしたやうに、直立不動の姿勢を取つた。
「退職歩兵中尉イワン・フョードロフ・シュポーニカと申します。」さう彼は答へた。
「甚だ立入つたことをお尋ねいたしますが、どちらへお越しになるのでございますか?」
「自分の所有農園《もちむら》、ウイトゥレベニキへ帰りますので。」
「なに、ウイトゥレベニキですつて!」と、この無遠慮な質問者は叫び声をあげた。「いや、これはどうも、あなた、いや、これはどうも!」さう言ひながら彼は、まるで誰かが捉まへてゐて放さないのか、それとも人ごみの中を掻き分ける時のやうに、両手を振りまはしながら、こちらへ近づくと同時に、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを抱きかかへて、まづ右の頬を、次ぎに左の頬を接吻した。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチにはこの接吻がひどく気持がよかつた。といふのは、この見知らぬ男の大きな頬が、彼の唇に柔かい座褥《クッション》の役目をしたからである。
「いやはや、これはどうも、あなた、どうかひとつお心易く願ひたいもので!」と肥大漢《ふとつちよ》は言葉をつづけた。「私もやはりガデャーチ郡の地主でして、然もあなたとはお隣り同士なんで。あなたのウイトゥレベニキ村からは、ほんの五露里も距れてをらぬホルトゥイシチェが私の持村で、姓名《なまへ》はグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・ストルチェンコといひますんで。是非とも、是非とも、あなたがホルトゥイシチェへ御来遊下さらなきやあ承知いたしませんよ。今はちよつと急用でいそいでをりますが……。これあどうしたんだい?」と、肘に補布《つぎ》
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