と思つたけれど、まるでこちらへ来る途中、すつかり言葉といふものを落つことして来でもしたやうに、彼の頭には何一つ、話題を思ひつくことが出来なかつた。
 沈黙が十五分くらゐも続いた。令嬢は依然として坐つてゐる。
 やつとのことに、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは勇を鼓して、半ば顫へ声で口を切つた。
「夏はどうも、たいへん蠅が多いですねえ、お嬢さん!」
「ほんとに大変なんですわ!」と、令嬢が答へた。「兄がわざわざ、母の古靴で蠅叩きを拵らへましたのですけれど、やつぱり、まだとても大変ですわ。」
 これで会話は再び杜絶えてしまつて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチには最早それ以上、どうにも言葉のいとぐちを見つけることが出来なかつた。
 その中に老主婦が、叔母さんや栗色髪《ブリュネット》の令嬢と一緒に戻つて来てしまつた。それから、また暫らくおしやべりをしてから、ワシリーサ・カシュパーロヴナは、是非泊つて行つて貰ひ度いとみんなから引き止められたけれど、老主婦や令嬢たちに暇を告げた。老主婦や令嬢たちは玄関まで客を見送つて、馬車の中から顔をのぞけてゐる叔母さんとイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチとに何時までも会釈を送つた。
「さあ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お前さんは、あのお嬢さんと二人きりで、どんなことをお話しだつたえ!」と、叔母さんが途々たづねた。
「たいへん気立ての優しい、上品な娘さんですねえ、あのマリヤ・グリゴーリエヴナは!」とイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが答へた。
「時にイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、妾お前さんに真面目に話したいことがあるのだよ。お前さんもお蔭でもう三十八にもおなりだし、官等も決して恥かしくはないのだから、そろそろ子供のことを考へなきやなりません! 何は措いてもお嫁を迎へることにしないでは……。」
「何ですつて、叔母さん!」と、びつくりしてイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが叫んだ。「ヨ、嫁ですつて! 以つての外です。叔母さん、ほんとに後生です……。あなたはまつたくこの僕に恥をかかせなさるんです……。僕はこれまで、まだ一度も、妻を持つたことはないんです
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