で、ドニェープルの河港。
シュームスク ウォルインスカヤ県下にある小都会。
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 騎士はいかめしい手で魔法使をふん掴みざま、空中高くさしあげた。途端に魔法使の息の根は絶え果てたが、死んでから彼は両眼を見開いた。既に彼は死んで、その眼差はこの世のものではなかつた。生きてゐる者や、蘇つた者は、こんな怖ろしい眼つきをしない。彼は死んだ眼で四方を見まはした。するとキエフや、ガリシヤの土地や、カルパシヤの山地から、自分の顔に瓜二つの死人どもが、うようよと立ちあがるのが見えた。
 飽くまで色あをざめ、いづれ劣らず背のひよろ長い、骨張つた亡者どもが、この物凄い獲物を手にさしあげた騎士のまはりに立ちあがつた。騎士はもう一度カラカラと打ち笑ふと共に、獲物をば深淵めがけて投げ込んだ。するとすべての亡者たちがその深淵に飛び込んで、魔法使の屍に蝟集しながら、てんでに歯を剥いてそれに喰《くら》ひついた。もう一人、どれより背が高く、どれより物凄い死人は、地中から立ちあがらうとしても、いつかな立ちあがることが出来なかつた――それほど固く、彼は地に植ゑつけられてゐたのだ。もし彼が立ちあがつたならば、カルパシヤの山々もトランシルバニヤも土耳古の国土も顛覆したことだらう。わづかに彼が身じろぎをしただけで全世界は震動し、至るところで多くの人家が倒壊して、人々が圧死を遂げた。
 時々、カルパシヤの山々で、ちやうど数千の水車場が一時に水音を立てるやうな物凄い音が聞える――それはまだ誰ひとり怖れて覗いて見たこともない、底無しの深淵《ふち》で、亡者どもが一人の死人を噛み砕く音である。時々、世界ぢゆうが隅々まで揺れ動くことがある。すると学問のある人々は、海の近くに一つの山があつて、それが火を噴き、熱湯の川を流すためだなどと言ふ。しかし、ブルガリヤやガリシヤの国にあつて、その謂はれをよく心得てゐる老人《としより》たちの話では、それは地下でぐんぐんと生長した、くだんの巨大な死人が、どうかして起きあがらうとしては、大地を揺がすためだと言ふ。

      十六

 *グルーホフの市で、ひとりの年老いた琵琶法師《バンドゥリスト》をまん中に取りかこんだ群衆が、もう一時間もその盲人の奏でる琵琶《バンドゥーラ》に聴き入つてゐる。このやうに珍らしい歌を、これほど巧みに歌ふ琵琶師《バンドゥリスト》はつひぞこれまで見なかつた。はじめ彼はサガイダーチヌイだの、フメリニーツキイだのといつた、昔の大総帥《ゲトマン》の物語をうたつた。当時は今日に比べると、まるで時勢が違つてゐた。それは哥薩克軍の黄金時代で、彼等は敵を駒の蹄にかけて踏みにじり、何人からも絶えて侮りを受けるやうなことがなかつた。老人は陽気な歌をうたひながら、まるで眼の見える人のやうに、盲いたその両眼を動かして群衆を見まはした。そして弾爪《つめ》を嵌めた彼の指は、まるで蠅のやうに弦の上を走りまはつて、さながら弦がひとりでに鳴るかとも思はれる程であつた。ぐるりの人々は、老年《としより》は首を垂れ、若者は翁をじつと見つめながら、忍び音ひとつ立てず、息を殺して聴き惚れた。
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グルーホフ チェルニゴーフスカヤ県下グルーホフ郡の首都。
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「さて、」と、翁が言つた。「今度はひとつ、古い古い昔の物語を謡つてお聞かせいたしませう。」すると群衆は一層ひしひしと、互ひに擦りよるやうにした。盲人はうたひだした。

『トランシルバニヤ侯ステパン殿は、波蘭王を兼ね給ひしが、その家臣《いへのこ》にイワン、ペトゥローなる、二人の哥薩克ありけり。この両人はさながら真《まこと》の兄弟の如く睦みあひ、※[#始め二重括弧、1−2−54]やよイワン、何事に依らず、すべて二人で分ち合はん。二人のうちいづれかに喜びあらば、その喜びを互ひに分ち、いづれかに悲しみあらば、その悲しみを共にせん。一人が獲物を得たる時は、半ばを相手に分つべし。一人が敵に囚はれなば、財《たから》のすべてを売り払ひ、必らず友を身受せん。それも叶はぬ暁は共に囚虜の苦を嘗めん。※[#終わり二重括弧、1−2−55]げにそのとほり両人は、何にもあれ、贏ち得し財《たから》を分ちあひ、掠めし牛馬を等分せり。
        ☆
『折しもあれステパン王は、土耳古と戦端を開きしが、激戦すでに三週に及べども、如何せん敵を駆逐すること能はざりき。それに引きかへ土耳古軍には、十人の手勢にてよく一聯隊の敵を斬り伏せるてふ、勇猛果敢の将軍《パシャ》ありき。さても、ステパン王宣して曰はく、もしもかの将軍をば、生きながらにもせよ、死屍にもせよ、今わが面前に引き来る勇士あらば、全軍に賜ふべき食禄を彼一人に与ふべしと。※[#始め二重括弧、1−2−54]やよ兄弟
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