》の話にすつかり脅かされてしまひましたの。あれは生まれるとから、あんな怖ろしい姿をしてゐて……子供たちも幼い頃から一緒に遊ぶのを嫌つたといふではありませんか。ね、あなた、まあ何て怖い話でせう、彼にはしよつちゆう、人が自分を嘲けつてゐるやうに思へるらしいんですつてね。暗い夜、誰かに出会つたりすると、彼にはその人が大口をあき、歯を剥き出して嘲笑つてゐるやうに思はれるのですつて。そして翌る日には、屹度その人は死骸になつて発見されるのですつてね。あたしその話を聞いた時、ほんとに不思議な、怖ろしい思ひがいたしましたわ。」
 かう語りながら、カテリーナは手巾《ハンカチ》を取り出して、自分の腕に眠つてゐる我が子の顔を拭つた。その手巾には彼女の手づから紅い絹絲で木の葉と木実《このみ》が刺繍《ぬひと》つてあつた。
 ダニーロは何の応へもせず、一方の、遠く森のうしろから土塁が黒々とつづいて、その向ふに古い城塞の聳えてゐる闇の中へ眼を凝らしはじめた。と、彼の眉の上には三本の皺が一時に刻まれた。その手は雄々しい口髭を撫でてゐる。「魔法使《コルドゥーン》が、何もそれほど怖しいのではない。」と彼は呟やくのだつた。「奴がもし敵の間者《まはしもの》だつたら大変なのだ。いつたいどうして奴はこの辺をうろつく気になりをつたのだらう? 波蘭人どもが、われわれとザポロージェ人との連絡を断つために、砦《とりで》を築く計画を立ててをるといふ情報も入つてゐる。もしそれが事実であつたなら……。どこかに奴の巣窟があるといふ評判でも聞えたなら、おれがその魔窟を蹴散らして呉れるわ。あの魔法使《コルドゥーン》の古狸めを焼き殺して、鴉にもついばませることぢやないぞ。だが、奴は必らず金銀財宝を貯へてゐるに違ひない。そら、あの悪魔が巣くふところは彼処《あすこ》だ! 奴めが金銀を貯へてをるとすると……。もうぢき十字架の傍を通りすぎる筈だが――あれは墓場だ! あの下で奴の穢れた先祖どもが腐つてをるのだ。なんでも、彼奴の先祖は、どいつもこいつも僅かな端た銭のために、霊魂とぼろくそなジュパーン諸共、平気で、おのれを悪魔に売り渡したといふことだ。果して彼奴が黄金を貯へてをるとすれば、もはや一刻も猶予すべきではないぞ――戦争をしてもいつも儲かる時ばかりはないのだから……。」
「まあ、あなたが何を企らんでいらつしやるのか、あたし存じてをりますわ。魔法使《コルドゥーン》に会つたのが悪い辻占でしたわ。それにしても、あなたはまあ、そんなに深い溜息を吐《つ》いたり、嶮しい眼つきをなすつて、お眉が、ほんとに気むづかしさうに眼の上へ押しかぶさつてゐますわ!……」
「女子《をなご》は黙つてゐろ!」と、ダニーロはむつとして、「お前たちにかかづらはつたが最後、こちらまで女《あま》つ子にされてしまふ。おい、こら、煙草の火をかせ!」さういつて、彼は舵子《かこ》の一人に顔を向けた。と、その小者は自分の煙草の火をほじり出して、主人の煙管へ移した。「魔法使《コルドゥーン》でおれを嚇しをるのさ!」と、ダニーロは言葉をついだ。「われわれ哥薩克は、有難いことに、悪魔や加特力僧《クションヅ》などにびくともするもんぢやないて。いちいち女房どもの言ひなりになつてゐたらさぞかし好からうけれど、なあ、さうぢやないか。おれたちの女房といへば――煙管と、この業物《わざもの》の他にはない筈だ!」
 カテリーナは口を噤んで、まどろむ水面に瞳を落した。川風が水面に小波を立てて、ドニェープルの流れは、夜半に見る狼の毛並のやうに一面に銀色を帯びた。
 独木舟《まるきぶね》はカーヴをまがると、樹木の生ひ繁つた河岸に沿うて馳つた。その河岸には墓地が見えて、古びた十字架が一塊り林立してゐた。そこには*肝木《カリーナ》一本、青草一筋なく、ただ月のみが高い天上から十字架を照らしてゐるばかりであつた。
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肝木《カリーナ》 忍冬科の落葉灌木。
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「おい、聞えるだらう、あの呼び声が? 誰かおれたちに助けを求めてをる!」と、ダニーロが舵子の方を顧みて言つた。
「呼び声が聞えてをります。どうやらあちらの方かららしうございます。」と小者たちは異口同音に、墓地を指さしながら答へた。
 しかし、あたりは以前の静寂にかへつた。舟は方向を転じて、突出した陸地に沿うて迂囘しつつあつた。突然、舵子どもは櫂もつ手をさげ、息を殺して、じつと眼をみはつた。ダニーロもハッとばかり固唾をのんだ。怖れと寒けがゾッと哥薩克|男子《をのこ》の背筋を走つた。
 一つの墓のうへの十字架がゆらゆらと揺れたかと思ふ途端に、乾からびた死人が、墓の中からすうつと立ち上つたのだ。頤鬚が帯のあたりまでも垂れ、長く伸びた指の爪は、指そのものより揺かに[#「揺かに
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