」はママ]長い。そろそろと彼は両手をさしあげた。と、彼の顔ぢゆうがぶるぶる顫へ出して、醜くひん曲つた。おそろしい苦痛を堪へ忍んでゐるらしい様子だ。※[#始め二重括弧、1−2−54]ああ息苦《くる》しい、息苦《くる》しい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう、彼は人間らしくない奇怪な声で呻いた。その声は刃《やいば》のやうに人の胸を貫いた。が、不意に死人は地の下へ消え失せてしまつた。すると次ぎの十字架がゆらゆらと揺れだして、前のより、もつと怖ろしく、もつと背の高い死人が現はれた。全身が毛だらけで、頤鬚は膝までもとどき、骨のやうな爪は前のより更に長くのびてゐた。彼は一際もの凄い声で※[#始め二重括弧、1−2−54]息苦《くる》しい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と叫ぶと、地下へ戻つて行つた。三番目の十字架が揺れ出して、三人目の死人が立ちあがつた。それはまるで骸骨だけが地上たかく突つ立つたもののやうに見えた。頤鬚は踵までもとどき、長く伸びた指の爪はまだ地中へ突きささつてゐた。彼はさながら月を掴まうとでもするやうに、怖ろしい勢ひで両手を高く差し上げると、その黄ばんだ骨を挽き切られでもするやうな、苦しげな叫び声をあげた……。
カテリーナの腕に眠つてゐた幼子は、わつと泣き声をあげて眼をさました。彼女も思はずあつと叫んだ。舵子《かこ》はドニェープルの河なかへ帽子を取り落してしまつた。ダニーロもぶるつと身を顫はせた。
だが、すべては忽ち跡形もなく消え失せた。しかし舵子どもは暫しのあひだ櫂を手に執らうともしなかつた。ブルリバーシュは、泣き叫ぶ幼子を抱きしめて怯えながらゆすぶつてゐる若い妻を、気づかはし気に眺めやり、彼女を胸もとへ引きよせて、その額に接吻した。
「怖がることはないよ、カテリーナ! 御覧、何もありやしないぢやないか!」さう彼は辺りを指さしながら言つた。「あれは魔法使《コルドゥーン》めが、自分の穢らはしい巣窟の在所《ありか》を知られまいとして、人を脅しをるのだよ。こんなことでビクビクするのは女《あま》つこばかりだ! さあ、坊やをこちらへおよこし!」
かう言ふと同時にダニーロは我が子を抱きあげて、自分の唇へと近づけながら、「どうだ、イワン、坊やは魔法使《コルドゥーン》なんぞ怖くないだろ? 怖くないよ、お父ちやん、おれは哥薩克だものつて言ひな。さあ、もう泣くのは沢山! おうちへ帰るんだよ! お母ちやんが粥《カーシャ》を拵らへて呉れるよ、さうして揺籃《ゆりかご》の中へ坊やを寝かして、かう唄ふよ。
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ねんねんよう、おころりよ!
坊やはよい子ぢや、寝んねしな!
大きくなつたら、よく遊び!
立派な哥薩克になつたなら、
悪い敵をば攻め伏せな!
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「なあ、カテリーナ! どうもお前の阿父《おとつ》つあんは俺らと仲よく暮すのが、面白くないらしいぢやないか。帰つて来た時からして、妙に気難かしく、まるで何か怒つてゐるやうに刺々《とげとげ》してゐる……。何か不服なんだよ――それならなぜ戻つて来たんだらう? 哥薩克の自由のために乾杯することも快しとしないのだ! 孫を抱いて揺ぶらうともしない! はじめ俺は何もかも胸を割つて、あのひとに打明けるつもりだつたが、どうも気が進まなくて、口へ出かかつた言葉もひつ込んでしまつたのさ。いや、あのひとには哥薩克魂といふものがないのだ! 哥薩克魂といふものは、いつ、何処で、でくはしても、必らず互ひの胸から胸へ通じ合ふものだ! どうだ、皆の者、もうぢき陸だらう? よしよし、帽子は新らしいのをやるよ。ステツィコ、お主《ぬし》には金飾りのついた天鵞絨《びらうど》表のをやるぞ、それは俺が韃靼人から首もろともに※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ぎ取つたやつだ。そ奴の武器《もののぐ》は何ひとつ残さず手に入れたが、ただ奴の魂だけは見のがして呉れたわい。さあ、舟を繋いだ! そうら、イワン、お家へ帰つたんだよ、それだのにお主は泣いてばかりをる! さあ、カテリーナ、坊やをおとり!」
一同は舟を降りた。山峡《やまかひ》に藁葺きの屋根が見え出した。それがダニーロの父祖から伝はる屋敷である。屋敷の後ろに、もう一つ山があるが、それから先きは一望ただ野原で、百露里歩いても哥薩克ひとり見いだすことは出来ないのである。
三
ダニーロの屋敷は、二つの山に挟まれてドニェープルの方へさがつてゐる谷あひにあつた。屋形は建《たち》が低く、家の外観は普通の哥薩克の住居と同じで、居間はただ一つきりであつたが、主人《あるじ》夫妻に、老婢と、選り抜きの郎党十人ばかりの者が身をおくだけの余地はあつた。四方の壁の上部には樫板の棚がずつと吊りわたしてある。その上にはところせまく、鉢だの、食物を
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