奴だ! 彼奴だ!」さういふ叫び声が、互ひにぴつたり躯《からだ》を擦り寄せるやうにした群衆のあひだから聞えた。
「*魔法使《コルドゥーン》がまた現はれたのだよ!」さう叫んで、母親たちは我が児の手をしかと掴んだ。
大尉は厳かに威儀を正して前へ進み出ると、魔法使《コルドゥーン》の面前に聖像をかざしながら、凛然たる声で言ひ放つた。『消え失せい、悪魔《サタン》の姿め! ここは汝《うぬ》のをるべき場所ではないぞ!』すると怪しい老人は無念さうに呻いて、狼のやうに歯を噛みならしながら、姿を消した。
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魔法使《コルドゥーン》 悪魔と交通して妖術を体得した人間。
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がやがやと、まるで暴風《あらし》の海のやうに、いろいろの取沙汰や論議が人々の間に持ちあがつた。
「いつたい、その魔法使《コルドゥーン》といふのは何だね?」と、若い連中や、これまでそんなものに出会つたことのない手あひが口々に訊ねた。
「災難が来るだよ!」と老人連は首を振りながら言つた。そして広い大尉邸の中では到るところ、そこここに、五人七人と屯して、人々がこの奇怪な魔法使《コルドゥーン》の物語に聴き入つた。だが、どの話もまちまちで、それに就いては誰ひとり確かなことを語り得るものがなかつた。
庭へ蜜酒《ミョード》の桶や、幾樽もの希臘葡萄酒が持ち出された。一同は再び浮かれ出した。楽師たちはかまびすしく音楽を奏で、娘や新造や、派手な波蘭服《ジュパーン》を着た哥薩克たちは矢鱈無性に踊りまはつた。九十だの百だのといふ高齢の、よぼよぼした老爺たちまでが、あだには過さなかつた昔日の自慢話に花を咲かせながら、調子に乗つて踊り出した。うたげは深更までも続いたが、その酒宴は、今日みるやうな酒宴とは、てんで趣きを異にしてゐた。やがてお開きといふことになつたが、家へ帰るものはほんの僅かで、多くの者は居残つて、大尉の家の広い庭で夜を明かすことにした。哥薩克どもの大部分は勝手気儘に、腰掛の下へもぐつたり、床の上にころがつたり、馬の脇腹にすり寄つたり、家畜小屋に凭れたりして寝た。つまり酔ひ潰れた哥薩克はゆきあたりばつたりにところきらはず身を横たへて、キエフ全市に轟ろき渡るやうな大鼾きをかきだした始末である。
二
下界が静かに仄明るくなつたと思ふと、山蔭から月が姿を現は
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