その老人が来てゐたなら定めし様々の珍らしい物語をして聴かせたことだらう。まつたく、そんなに永らく異端の地で暮したものに、珍らしい話のない筈はない! あちらでは何もかもが異つてゐる。住民もまるで異へば、基督の会堂といふものもない……。だが、しかしその老人はやつて来なかつた。
客の前へは、乾葡萄と梅の実の入つた混成酒《ワレヌーハ》や、大きな皿にのせた婚礼麺麭《コロワーイ》が運ばれた。楽師どもは暫し音楽をやめ、鐃※[#「金+拔のつくり」、第3水準1−93−6]《ツィンバルイ》や提琴や羯鼓をかたへに置いて、貨幣の焼き込んである婚礼麺麭《コロワーイ》の底を熱心に探つた。一方、新造や娘たちは刺繍《ぬひ》のある手布《ハンカチ》で口ばたを拭つて、再び自分たちの列から前へ進み出た。すると若者どもは両脇に手をかつて、誇りかにあたりへ眼を配りながら、まさに彼女たちを迎へて踊り出さうとした――丁度その時、新郎新婦を祝福するために老大尉が二つの聖像を捧げて現はれた。その二つの聖像は高徳の誉れ高い苦業僧*ワルフォロメイ聖者から授けられたものであつた。それには何らきらびやかな飾りもなく、金銀の燦やきとてはなかつたが、それを我が家に祠る者に対しては、如何なる悪霊も危害を加へることが出来なかつた。今しもその聖像を高くかざしながら、大尉が短かい祈祷をのべようとした、ちやうどその時……地べたに遊び戯れてゐた子供たちが、不意に怯えて、わつと泣き出した。それに次いで、群集がたじたじと後ずさりをしながら、怖れおののいて、一同のまんなかに立つてゐる一人の哥薩克を指さした。それがいつたい何人なのか、誰ひとり知る者がなかつた。だが先刻、哥薩克踊《カザチョーク》を一番、ものの見事に踊つてのけて、自分のぐるりの群衆に何か冗談口を叩いて哄笑を買つた男である。大尉が聖像をさしあげると同時に、突然その哥薩克の顔つきは一変して、鼻が見る見る伸びて一方へ曲り、それまで鳶いろであつた両の眼は俄かに緑いろに変じて、かつと飛びだし、唇はあをざめ、頤がブルブルふるへだすと、まるで矛のさきのやうにとんがり、口からは牙がにゆつと露はれ、頭には瘤が盛りあがつて、その哥薩克はまるで老人の姿に変つてしまつた。
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ワルフォロメイ聖者 基督の十二使徒の一人、(バルトロマイ)。
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「彼
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