つ出来ねえ人だもの!」
「これあ教父《おとつ》つあんでねえだか!」と、じろじろと相手を見詰めながら教父が喚いた。
「してお前、このおれを誰だと思つたのだい?」とチューブがにやにやしながら言つた。「どうだいお前方、うまくおらにかつがれたでねえか。だが、あぶなくお前たちに豚と間違へて食はれてしまふところだつたよ。待ちな、お前たちを喜ばせることがあるだよ。この袋ん中にやあ、まだ何か入えつてるだよ。野豚でなきやあ、屹度、仔豚か何か、ほかの家畜《もの》に違えねえ。おらの尻の下でしよつちゆう、何かもぞもぞしてゐよつただから。」
それつとばかりに、織匠《はたや》と教父《クーム》が袋へ飛びついて行くと、この家の女主人《かみさん》も反対がはから掴みかかつたので、もはや逃れ難きを覚つた補祭が、その時、袋の中から這ひ出さなかつたものなら、再び猛烈な争奪戦が盛り返されるところだつた。
おつ魂消た教父《クーム》の妻は、あはや袋の中から引つぱり出さうとして掴んでゐた補祭の足を手ばなした。
「おや、まだひとり入えつてゐたんだな!」と、織匠《はたや》が仰天して叫んだ。「いつたい何が何だかさつぱり分らねえ……。頭がグラグラして来らあ……腸詰でもなけれあ、扁平麺麭《パリャニーツァ》でもねえ、生きた人間を袋へ詰め込むなんて!」
「おや和尚《おつ》さんでねえか!」と、誰よりも甚く度胆を抜かれて、チューブが口走つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]ええ忌々しいつたら! あのソローハの性悪婆あめ! 人を袋ん中へ押し込めやあがつて……ほんにさう言へば、彼女《あいつ》のところにやあ、袋がざらにあつたつけ……。うん、今こそ何もかも読めたぞ、あの袋には、どれにも、二人づつの人間が入えつてゐたんだな。おれは又、彼女《あいつ》がおれだけに何をしてをるとばかり思つてゐたのに……。ほんにほんに忌々しいつたらねえ、あのソローハめ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
* * *
娘たちは袋が一つ無くなつてゐるのを見て、ちよつと怪訝に思つた。
「仕方がないわ、あたし達にやあこれだけで沢山ぢやないの。」さう、オクサーナが口早に言つた。
一同は総がかりで袋を持ちあげて、橇に載せた。
村長は心の中で、もし自分が袋の口を解いて自由にして呉れなどと呶鳴らうものなら、馬鹿な娘たちのことだから、きつと袋の中には鬼でも入つてゐると思つて、逃げ出してしまふだらう、さうなつたが最後この往来のまんなかに、てつきり朝までは放つて置かれなきやなるまい、さう思つたので、一切口をきかぬことに肚を決めた。
その間に娘どもは仲よく手をつなぎあつて、軋みを立てる雪の上を、まるで旋風のやうに橇を引いて疾走して行つた。娘たちの多くは、ふざけて橇に乗つかつたりしたが、中には村長の上へのしかかつたりする者もあつた。けれど村長は何事もじつと我慢するより他はないと諦らめた。
やがて家へつくと、入口の扉をいつぱいに開けはなして、笑ひさざめきながら袋を中へ引きずり込んだ。
「さあ、この中に何が入つてるか見てやりませうよ。」さう叫んで、一同はいきなり袋の口を解きにかかつた。
この時、袋の中にすくんでゐる間ぢゆう、村長が我慢に我慢をしてゐたくしやみの発作がいよいよ激しくなつて、たうとう彼は、思ひきり大きくくしやみをして咳き込んでしまつた。
「あら、この中には誰か人が入つてるのよ!」さう叫びざま、娘たちは驚いて、戸の外へ逃げ出してしまつた。
「どうしたつてんだね、お前さん方は、狂人《きちがひ》のやうに駈け出したりして?」と、その時、入口へ入つて来たチューブが声をかけた。
「まあ、お父《とつ》つあん!」と、オクサーナが言つた。「あの袋の中に誰かしら入つてゐるのよ!」
「袋の中に? いつたい何処からこんな袋を持つて来たんだ?」
「鍛冶屋が道の真中に棄てて行つたのよ。」と、みんなが異口同音に答へた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]ふうむ、さうか。言はねえこつちやないて……※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、チューブは肚の中で頷いて、「何をビクビクしてるだ。ひとつ中を調べてみようでねえか――さあさあ袋ん中の御仁へ――どうか名前と父称でお呼び申さないことを悪く思はんで下さいよ――さあ、袋から出ておくんなさい!」
村長が外へ這ひだした。
「わあつ!」と娘たちは金切声をあげた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]村長までがこんな中へ入つてやあがつたのだな※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、いささか呆れ顔で、相手を頭の天辺から足の爪先まで、じろじろと眺めながら、チューブは口の中で呟やいた。「これあどうも!……うへつ!……」それ以上、彼は何も言ふことが出来なかつた。
村長の方も負けず劣らず狼狽してゐたので、どう切り出したらいいか、さつぱり見当がつかなかつた。
「きつと、戸外《そと》は寒いことだらうね?」彼はチューブの方をむいて、そんなことを言つた。
「かなりの凍《い》てで。」と、チューブが答へた。「それはさうと、靴には何を塗りなさるだね、鵞脂《スマーレツ》か、それとも煙脂《タール》かね?」彼はそんなことを言ふつもりではなく、※[#始め二重括弧、1−2−54]どうして村長はこんな袋の中へ入つてゐなすつたので?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と訊きたかつたのに、まるで見当ちがひなことを言ひ出してしまつたのが、我ながら合点がゆかなかつた。
「煙脂《タール》の方が良いやうだね。」と、村長は答へた。「ぢや、御免よ、チューブどん!」さう言つて、ぐつと帽子を目深くかぶると、彼は戸外《そと》へ出て行つた。
「おれとしたことが、なんだつて馬鹿な、靴には何を塗りなさるなんて村長に訊ねたもんだらう!」と、チューブは村長の出て行つた戸口をじつと睨みながら呟やいた。「ええい、くそつ、ソローハの阿女《あま》め! なんちふ奴を袋ん中へなんぞ隠《かく》まひをつたのぢや!……ちえつ、くそ婆あめ! ぢやが、おれはまた馬鹿な……。それはさうと、あの忌々しい袋は何処へやつたのぢや?」
「隅つこへ投り込んでおいたわよ、もうあん中にはなんにも無かつたわ。」さうオクサーナが答へた。
「その何にもないちふぺてんをおれはよう知つとるぞ! ここへ持つて来な、あん中にはまだもう一人は入つとる筈ぢや! ようく振るつて見な……。なんだと、何もねえつて? 忌々しいくそ婆あつたらないて! その癖、あいつは、まるで猫とと食はぬ、お聖人様みてえな面をしてやがるんだ……。」
しかし、チューブが暇にまかせて憤懣を吐き散らしてゐる間に、われわれは鍛冶屋の方へ眼を移して見ることにしよう。時刻はもう、かれこれ九時ちかくにもなつたらうから。
* * *
初めのうち、ワクーラは怖いやうに思つた。殊に地上の物が何ひとつ見えないほど高く昇つて、まるで蠅のやうに、月の下をすれすれに飛び過ぎる時などは、ちよいと身を屈めなかつたら、危く月に帽子をひつかけてしまふところだつたので、彼ははらはらした。だが、暫らくすると彼もすつかり元気になつて、そろそろ悪魔をからかひはじめた。(彼が自分の頸にかけてゐた絲杉の十字架をはづして悪魔の方へ差し出すと、悪魔はくしやみをしたり咳をしたりする――それが面白くて堪らなかつた。彼がわざと頭を掻く振りをして手をあげても、悪魔は自分に向つて十字を切られるのではないかと思つて、一層はやく翔つた。)空はすつかり明るかつた。フハフハした銀いろの靄のたちこめた大気は透明で、何もかも手に取るやうに見ることが出来た。壺の中に坐つたまま、疾風のやうに傍を飛びすぎる魔法使の姿や、一と塊りになつて鬼ごつこをしてゐる星の群れや、また一方にうじやうじやと雲のやうに渦巻いてゐる精霊の一団や、月光の前で踊りながら、自分の同族の肩車に乗つて駈けすぎる鍛冶屋に向つて帽子をとる別の悪魔や、妖女《ウェーヂマ》がまさしく何処か用事のある処へ乗つて行つたらしい箒がひとり翔んで後へ引つ返しつつあるのまで、はつきりと認めることが出来た。そのほか様々の有象無象に彼等は出喰はした。どれもこれも鍛冶屋を見ると、一瞬間、その場に立ちどまつて、まじまじと彼の顔を眺めるが、やがて通りすぎてしまふと、まためいめいの運動をつづけた。鍛冶屋はずんずんと翔んで行つた。と、不意に彼の眼の前に、いつぱい灯の点つた彼得堡《ペテルブルグ》が現はれた。(ちやうどその時、何かの機会で万光飾《イルミネーション》が施こされてゐたのだ。)関門を通りすぎると同時に、悪魔は馬の姿にかたちを変へたので、鍛冶屋は市《まち》の真中を駿馬に跨がつて駈けてゐる自分を見出した。
いやどうも! その喧々囂々たる賑はひと、きらびやかさといつたら! 両側には四階建の大廈高楼がによきによきと聳え立ち、馬蹄の音や車輪の響きが霹靂のやうに轟ろきわたつて四方から反響《こだま》となつて跳ね返つて来る。建物は恰かも地中から生え出て一歩は一歩と高まつてゆくかと思はれ、橋はどよめき、馬車は飛び、辻馬車屋《イズウォスチック》や馭者は喚きたて、積雪は八方から飛んで来る無数の橇の下でシューシューと鳴り、行人は油燈で照明を施こした家々の下を押しあひへしあひして、その頭が煙突や屋根にまでとどくやうな厖大な陰影《かげ》が壁面にゆらゆらと映つてゐる。
すつかり度胆をぬかれて、鍛冶屋はキョロキョロと八方を見まはした。彼にはあらゆる家々がその数限りない灯の眼《まなこ》でカッと自分を睨みつけてゐるやうに思はれた。羅紗表の毛皮外套《シューパ》を著こんだ貴顕紳士がざらに眼につくので、いつたいどの人に帽子を脱るべきか、頓と彼には分らなかつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おお神様! この市《まち》には一体どれだけ旦那衆がゐることだらう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]そんな風に鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おほかた毛皮外套《シューパ》を著て街を歩いてゐる人は、どれもこれも、みんな陪審官に違ひない! 又、ああいふ硝子窓のついた素晴らしい馬車を駆つて行く人々は市長でなければ、てつきり警察部長か、それとも、もつともつと身分の高い衆に違ひない。※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼のかうした思索の絲は不意に、悪魔の質問に依つて断ち切られた。『女帝の御殿へまつすぐに参内するのでございますか?』※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、それはちよつとおつかない※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、鍛冶屋は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]何処か知らないが、こちらに、この秋ディカーニカを通つたザポロージェ人の一行が逗留してゐる筈だ。あれは*セーチから女帝へ捧呈する上奏文をもつて来た連中だ。ともあれ、あの連中に相談して見よう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思つたので、「こりや下道! さあ、おれの衣嚢《かくし》へ入つてしまへ、そしてザポロージェ人のところへ案内するのだ!」
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セーチ 哥薩克軍の本営で、主としてドニェープルの中流にある島嶼、ザポロージェに置かれてゐた。
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すると悪魔のからだは見る見る痩せ細つて小さくなり、何の苦もなく彼の衣嚢《かくし》へ入つてしまつた。そしてワクーラは、前後を振りかへる暇もなく、いつの間にか或る大邸宅の前へ来てゐた。自分ながら何が何やら分らぬまま、彼は階段を登つて扉をあけたが、立派な飾りつけの部屋の中を覗くと、まぶしさに思はずちよつと後ずさりした。しかし現に今、絹張りの長椅子《デイヴァン》の上に、樹脂を塗つた長靴ばきで胡坐をかいて、俗にコレシュキといふ最も強烈な煙草をスパスパ喫つてゐるのが、ディカーニカを通つた件《くだ》んのザポロージェ人たちに違ひないのを見て、ほつと安心した。
「旦那がた……御機嫌よろしう! 何とまあ、不思議なところでお目にかかるではございませんか!」傍へ近よつて、地べ
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