て、その絵は立派に出来あがり、寺院へ運ばれて、外陣の壁へ嵌めこまれた。この時以来、悪魔は鍛冶屋に復讐《しかへし》をしようと心に誓つたのだ。
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蜜飯《クチャ》 乾葡萄や蜂蜜を混じて炊いた飯様の食品で、死者の供養直後、または降誕祭の前夜等に食するもの。
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 だが、もはや彼が地上を徘徊することの出来るのも、剰すところ一晩きりだ。今夜こそは何とかして鍛冶屋に対する日頃の欝憤を晴らさにやならぬと思つて、隙を狙つてゐたのだ。さてこそチューブ老人が億劫がつて出かけ渋るやうにと、月を隠してしまつた訳だ。補祭の家まではかなりな道のりでもあり、そのまた道が裏道で、磨粉場《こなひきば》や、墓地の傍をとほつて谷を一つ迂※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しなければならないと来てゐる。月夜でもあればまだしも、混合酒《ワレヌーハ》や※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]天藍《さふらん》入りの火酒《ウォツカ》がチューブを誘ひ寄せもしたであらうけれど、こんな暗夜に彼を煖炉《ペチカ》から引き離して、家からおびき出すことはちよつと誰の手にもをへることではなかつた。ところで、鍛冶屋はこの老人とは日頃から気合《そり》があはなかつたので、腕つ節の強いにも似ず、父親のゐる時に娘のところへ出かけるなどといふことは先づなかつた。
 そんなわけで、悪魔が衣嚢《かくし》へ月を匿すと同時に、急に全世界が真暗《まつくら》になつてしまつたため、補祭のところは愚か、酒場へ行く道もおいそれとは見わけることが出来なかつた。妖女《ウェーヂマ》は不意にあたりが暗くなつたのを見て、あつと叫び声をあげた。悪魔はすかさず、じやらつくやうにそばへ近よつて妖女《ウェーヂマ》と腕を組んで、その耳に口をよせると、人なみに情婦に向つて言ふやうな、紋切型の口説を夢中になつて囁やきだした。実にこの世の中といふやつは奇妙に出来てゐる! この世に住んでゐる限りの者が互ひに見やう見真似に憂身をやつしてゐるのだ。以前、ミルゴロドでは判事と市長だけが多分、羅紗の表をつけた毛皮外套《トゥループ》を著てゐただけで、他の一般の下級官吏は、普通の、表なしの品より他は用ゐなかつたものだ。それが当今ではどうだ、村役人や倉庫番までが*レシェティロフ産の毛皮に、羅紗の表を附けた大外套《シューパ》を新調しをる。事務員や、郡書記でさへも一昨年あたりは、一アルシン六十|哥《カペイカ》もする青い支那絹を買ひ込みくさつた。寺男までが南京織の夏ズボンと、縞目のある手編のチョツキを新調しをる。一口にいへば、誰も彼もが見やう見真似をしたがるのだ! いつたい何時になつたら人間は、かうした余計なことに齷齪しなくなるだらう! ところで悪魔までが矢張りさうした見やう見真似に憂身をやつしてをる処を見るのは、大抵の人々にとつては確かに面白いことに違ひない。それは賭をしてもいいくらゐだ。何より片腹痛いのは、あの見るのも恥かしいやうな不態な恰好をしてゐながら、奴さん自分をいつぱしの優男と思ひこんでゐるらしいことだ。フォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの言ひ草ではないが、穢らはしいにも穢らはしい、醜悪そのもののやうなあの御面相で、情事《いろごと》に憂身をやつさうなんて、いやはやだ! だが、天も地も一様に真暗になつてしまつたので、悪魔と妖女《ウェーヂマ》とのあひだに一体それからどんないきさつが持ちあがつたかは、もはや知る由もなかつた。
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レシェティロフ ボルタワ[#「ボルタワ」はママ]県下の町で、ゴヅトワ河の沿岸に位し、毛皮の産地として有名なところ。
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        *        *        *

「ぢやあ、教父《とつ》つあん、お前は、まだ補祭がとこの新家へは行かなかつたのかい?」と哥薩克のチューブが自分の家の戸口を出ながら、短かい皮外套を著た、痩せて背のひよろ長い相棒の百姓に声をかけた。その男の髯もぢやな顔は、もう二週間以上、よく百姓たちが剃刀を持ち合はせてゐないところから髯を剃るのに使ふ、あの鎌の破片《かけ》も当てられてゐないことを物語つてゐた。「今夜あすこで、素晴らしい酒宴《さかもり》があるだよ!」と、茲でにやりと笑顔を見せてチューブは語りつづけた。「どうかまあ、遅参にならなきやあよいがのう!」
 そこでチューブは皮外套の上からしつかり緊めてゐた帯をなほして、帽子をぐつと目深に引きさげると、煩さい野良犬を嚇すための鞭を手に握つた。だが、空を見あげて、思はず彼は足をとめた……。
「これあ、いつたい、なんちふことだ! おい見ねえ! 見ねえつたら、パナース!……」
「なんだね?」と言つて、
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