から見ればてつきり★独逸人で、その、ひつきりなしにヒクヒクと動いて、鼻の先きへぶつかつたものなら何によらずクンクン嗅ぎまはさずには措かぬ鼻づらは、ちやうど豚の鼻のやうにまんまるな五|哥《カペイカ》銅貨型をしてをり、その脚と来ては至つて細く、こんな脚を、あのヤレスコーフ村の村長がもつてゐたなら、最初《はな》の哥薩克踊《カザチョーク》で挫いてしまつたことだらう。ところが、後ろから見ると、まるで制服を著けた県の陪審官そつくりなのだ、といふのは、当今の制服の裾と同じやうな、ツンと尖つた長い尻尾がさがつてゐたからで、ただその口の下に垂れた山羊髯や、頭から突きでた小さい角をみれば無論のこと、五体が煙突掃除人よりも黒いところから推して、それが独逸人でもなければ、県の陪審官でもなく、もはや今宵ひと夜しか、この地上を徘徊して、善良な人間を誑《たぶら》かして罪に曳きこむことのできない、悪魔に他ならぬことは、たやすく知ることが出来た。あしたになれば、早朝の祈祷の最初の鐘の響きと共に、彼は尻尾をまいて、一目散におのが洞窟へ逃げこまねばならないのだ。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
★ 小露西亜では他国人のことを、それが仏蘭西人であらうと伊太利人であらうと乃至は瑞典人であらうと、総て一様に独逸人と呼んだものである。(蜜蜂飼註)
[#ここで字下げ終わり]
この間にも悪魔はだんだん月の傍へ忍び寄つて、今にも手を差しのべてそれを掴まうとしたが、急に手をひくと、火傷でもしたやうに指を舐めて、足をバタバタさせた。今度は反対側から飛びかかつたが、又もや飛びのいて手を引つこめた。だが、再度の失敗にもめげず、狡獪な悪魔はその悪戯《いたづら》をやめなかつた。やがて、不意に駈けよりざま、彼は両手で月を掴んだ。そして、ちやうど百姓が煙草を吸ひつけようとして素手で燠《おき》を持つた時のやうに渋面を作つてフウフウ息を吹きかけながら、月をこちらの手からあちらの手へと持ち換へ持ち換へしてゐたが、しまひに大急ぎで衣嚢《かくし》の中へ押しこむと、もう何事もなかつたやうな顔で、さきへ駈け去つてしまつた。
悪魔が月を隠したなどとは、ディカーニカでは誰ひとり知る者がなかつた。尤も郡書記が酒場から四つん這ひになつて這ひだしながら、月が空で矢鱈に踊つてゐるのを見かけたので、そのことを村中の者に誓ひを立てて言い張つたけれど、村民は首を横にふつて、そのうへ彼を嘲笑ひさへした。だが悪魔がこんな無法なことを企らんだのは一体どういふ訳があつてだらう? それはかうだ。彼は分限者のチューブといふ哥薩克が、補祭の家へ*蜜飯《クチャ》に招ばれてゐることを知つてゐた。そこへは村長や、大僧正つきの唱歌隊から戻つて来てゐる、青いフロックを著て、低音《バス》の最低音部を勤める、スウェルブイグーズといふ、補祭の縁つづきの哥薩克や、まだ誰や彼やが招ばれてゐる筈だ。また其処では蜜飯《クチャ》のほかに混合酒《ワレヌーハ》や、※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]天藍《さふらん》を浸《つ》けた火酒《ウォツカ》や、まだそのほかいろんな料理が出るに違ひなかつた。さうすると、チューブの娘で、村一番といふ美人が、一人で家に残ることになる。さうなれば間違ひなくこの娘のところへ、悪魔にとつてはコンドゥラート神父の説教よりも苦手の鍛冶屋が忍んで来るにきまつてゐる。そいつは恐ろしく腕つ節の強い素晴らしい若者なのだ。この鍛冶屋は仕事の合間々々に塗師《ぬりし》の仕事もして、この界隈ではなかなか上手な画工だといふ評判だつた。まだそのころ達者だつた百人長《ソートニック》のル××コもわざわざポルタワへ彼を呼んで、邸のまはりの板塀を塗らせたものだ。ディカーニカの哥薩克どもが雑汁《ボルシチ》をすする鉢はみんなこの鍛冶屋が彩色をするのだつた。この鍛冶屋は信心ぶかい男で、幾度も聖者の御像を描いた。で、現今《いま》でもT×××寺院には彼の筆になる福音書の使徒ルカの像が残つてゐる。しかし彼の入神の技ともいふべきものは、会堂の右側の、外陣の壁に懸つてゐる一幅の絵である。その絵には、鍵を手にして悪魔どもを地獄から追ひ出してゐる、最後の審判の日の聖ペテロが描かれてゐる。身の滅亡に直面して周章狼狽した悪魔どもが四方八方へもがき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのを、先きから監禁されてゐた亡者たちが、笞や、木切れや、そのほか手当り次第の得物で打擲しながら追ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐる図である。この画工がその絵に精根を打ち込んで、大きな木の板の上に画筆を揮つてゐる最中に、悪魔は懸命にそれを妨害しようとして、人知れずその手をつつ突いたり、鍛冶場の竈から燃え殻を吹き揚げて画面へまき散らしたりなどもしたが、すべてが無駄にをはつ
前へ
次へ
全30ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平井 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング