め寄りながら、梵妻が喚いた。「お前だね、この妖女《ウェーヂマ》め、あのひとに霧を吹つかけて、穢《きた》ない毒を呑ませて、あのひとを銜へこみくさつたのは!」
「どきあがれ、この夜叉め!」と、織匠《はたや》の女房は後退りをした。
「なにをつ! この忌々しい妖女《ウェーヂマ》めが、お前なんざあ、我が子の顔も見ずにくたばりくさるがええだ! 碌でなしめ! ちつ!」さういふと、梵妻は織匠《はたや》の女房の顔のまんなかへ唾を吐きかけた。
 織匠《はたや》の女房も負けず劣らず仕返しをしようと思つて、ぺつと唾を吐いたが、それは目指す相手にはかからないで、この啀み合ひをもつとよく聴かうとして、顔をさし寄せてゐた村長の髭面にまんまと、ひつかかつたものだ。
「ええ穢《きた》ならしい、この婆あめが!」さう呶鳴つて村長は、着物の裾で顔を拭きながら、鞭を振りあげた。その劔幕に驚ろいた一同は、悪態をつきつき、ぱつと四方へ散つた。「ええ、穢ない!」と、顔を拭きながら村長が繰返した。※[#始め二重括弧、1−2−54]それぢやあ、鍛冶屋は身投げをしてしまつたか! ほんとになあ! まつたく上手な絵描きぢやつたが! 丈夫な小刀だの、鎌だの犁《すき》だのを鍛《う》ちをつたになあ! それに、ええ力持ぢやつた! ほんとに、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、思ひに沈みながら彼はつづけた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あんな人間はこの村にやあ稀らしいて。なるほどさう言へば、おれはあの忌々しい袋の中に入つてゐながら、可哀さうに奴さん甚くふさぎこんでるなと思つたつけが。ほんに可哀さうな鍛冶屋ぢや! つい先刻《さつき》までゐたものが、もう居なくなつてしまつたのか!、[#「、」はママ]おれは、うちの牝馬の蹄鉄《かなぐつ》を打たせようと思つてゐただのに……。※[#終わり二重括弧、1−2−55]かうした基督教徒らしい思ひに心をふさがれながら、村長はそろそろと自分の住居の方へ歩き出した。
 同じやうな風説がオクサーナの耳に達した時、彼女ははつと胸を突かれた。彼女は、ペレペルチハが眼のあたり見たといふことだの、女房連の取沙汰には、大して信用を置かなかつた。彼女は鍛冶屋が自分で自分の霊魂を滅ぼすやうな不信心者でないことをよく知つてゐた。しかし、まつたく、二度と村へ帰らぬつもりで、彼がどこかへ行つてしまつたのだとしたら、どうし
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