わい。もう、かういふことにかけては、うちの婆さん以上に詳しい人は先づないぢやらうて。さあ、ところでどうだらう! わしは態々この男をば一角《ひとかど》の人間なみに、そつと傍らへ引つぱり寄せてな、『これさ、マカール・ナザーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お前さんとしたことが、そんなことを言つて混ぜつ返しなさんなよ! お前さんは立派な御仁で、一度などは知事とひとつ卓子で食事をしたこともあると、御自分でも言つておいでぢやないか。ね、そんな変てこなことを言ふと人に笑はれますぜ、ほんとに!』と、かういつて注意してやつたものぢや。ところで、諸君は、これに対して彼がなんと答へたと思し召す? 何ひと言、返辞をするどころか! ただペッと床へ唾を吐くと同時に、帽子を掴んで、誰一人に向つて暇乞を述べるでも、会釈ひとつするでもなく、プイと戸外《そと》へ飛びだしてしまつたのぢや。ただ我々の耳には、馬車が鈴を鳴らしながら門の方へ出てゆく音が聞えただけぢや。馬車に乗ると、その儘たち去つてしまつたといふ訳でな。それが結局こちとらには仕合せといふものぢや! なあに、こちとらには、あんなお客に用はないぢやて!
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