いや、まつたく世の中に名士つてえ奴くらゐ始末の悪いものはない。あの男の叔父とかが、なんでも警視か何かを勤めてゐたことがあるつてえのでな、それで先生、いやにお高くとまつてゐくさるのぢや。警視といへば世の中にこれほど偉いものはない高位高官だとでも思つてゐるのかい? お蔭さまで、警視なんかより、もつともつと偉いものが幾らでもありまさあね。いんにや、わしにはかういふ名士つてえ奴がどうも気に食はん。たとへばあのフォマ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを御覧《ごらう》じろ、どれだけ有名な人といふでもないけれど、あの人をよく見ると、顔に何処となく、どつしりした威厳が具はつてをる――あの人が、なんでもない普通《なみ》の嗅煙草を嗅ぎ始める様子を見ても、自然と頭が下るやうな人徳といふものが窺はれるのぢや。会堂であの人が頌歌席に立つて讚美歌を唱ひ出すといふと、なんとも名状しがたい感動に打たれてしまふ! まるで、躯《からだ》ぢゆうがとろけてしまふやうな気持ぢや!……ところが、あの……いや、彼奴《あいつ》のことなんざあ、どうだつていい! 奴さん、自分の話が入らなくつちやあ、二進も三進もゆくまいと自惚れてをるのぢやらう。ところが、ちやんとこのとほり一冊の本にさへ纒まつたぢやごわせんかい。
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濁麦酒《クワス》 ライ麦の麦芽を用ゐて醸造した一種の家庭飲料で、ビールに似た軽い酒精分を含み、露西亜人の一般に愛飲するもの。
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 さて、わしは慥か、この本の中へ自分自身の噺もさし加へるやうなお約束をしておいた筈ぢや。実際そのつもりでゐたのぢやが、わしの噺には少くともこんな本の三冊分くらゐの紙面が要るつてえことが分つたんでな。いつそ別冊にして発行しようかとも思つたけれど、また思ひ直しましたのぢや。わしはちやんと知つとる――諸君がこの老人を哂笑《わら》ひ出されるつてえことをな。いやもうそれは真平御免ぢや! では御機嫌よう! もう当分、或はもうこれつきり永久に、お目にはかかりますまい。それがどうしたといふのぢや? どだい諸君にとつては、わしなど初めつからこの世にゐなくつたつて同じことぢやないか。一年、二年と時の経つうちには――諸君のうち誰ひとりとして、後年この老蜜蜂飼ルードゥイ・パニコーのことなど、思ひ出したり悲しんだりして
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