やうな話がいつも好きなのぢや。)――で、その折には林檎の塩漬の仕方について話がはずんでゐたのぢや。宅《うち》の婆さんが、それには先づ前もつて林檎をよく洗ひ浄めて、次ぎに*濁麦酒《クワス》に浸けて、それから今度は云々といつた塩梅に、語り進めようとした時ぢや。『そんなことをして何になるものですか!』と、例のポルタワの先生め、豌豆いろの長袗《カフターン》の胸へ片手を突込んで、のつしのつしと歩調《あしどり》も重々しく部屋を歩きまはりながら、婆さんの話の腰を折りをつたのぢや。『それぢやあ、なんにもなりませんよ! 何よりも先づ第一に、水金鳳《きつりぶね》の葉を交互《たがひちがひ》に撒き込むことですよ、さうしてから初めてその……。』さあ、ひとつ読者諸子に伺つて見たいものぢやて、つひぞ何時か、林檎の中へ水金鳳《きつりぶね》の葉を撒き込むなどといふ話を、お聴きになつた例しがありますか、ひとつ公平な御意見を伺ひたいもので! なるほど、すぐりの葉とか、ぶたごやしとか、つめくさなどは入れもするぢやらうが、水金鳳《きつりぶね》なんちふ代物を漬け込むなどとは……いや、わしはてんでそんなことは聴いたこともありませんわい。もう、かういふことにかけては、うちの婆さん以上に詳しい人は先づないぢやらうて。さあ、ところでどうだらう! わしは態々この男をば一角《ひとかど》の人間なみに、そつと傍らへ引つぱり寄せてな、『これさ、マカール・ナザーロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お前さんとしたことが、そんなことを言つて混ぜつ返しなさんなよ! お前さんは立派な御仁で、一度などは知事とひとつ卓子で食事をしたこともあると、御自分でも言つておいでぢやないか。ね、そんな変てこなことを言ふと人に笑はれますぜ、ほんとに!』と、かういつて注意してやつたものぢや。ところで、諸君は、これに対して彼がなんと答へたと思し召す? 何ひと言、返辞をするどころか! ただペッと床へ唾を吐くと同時に、帽子を掴んで、誰一人に向つて暇乞を述べるでも、会釈ひとつするでもなく、プイと戸外《そと》へ飛びだしてしまつたのぢや。ただ我々の耳には、馬車が鈴を鳴らしながら門の方へ出てゆく音が聞えただけぢや。馬車に乗ると、その儘たち去つてしまつたといふ訳でな。それが結局こちとらには仕合せといふものぢや! なあに、こちとらには、あんなお客に用はないぢやて!
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