素早く鏡の前へ顔を持って行った――鼻はある。彼は朗らかに後ろを振り返ると、少し瞬きをしながら、嘲るような様子で二人の軍人をちらと眺めた。その一人の鼻はどうみてもチョッキのボタンより大きいとは言えなかった。そこを出ると、かねがね副知事の椅子を、それが駄目なら監察官の口をとしきりに奔走していた省の役所へ赴いた。そこの応接室を通りすぎながら、ちらと鏡をのぞいてみた――鼻はある。つぎに彼は、もう一人の八等官、つまり少佐のところへと出かけた。それは大の悪口屋で、いつもいろんな辛辣な皮肉を浴びせるものだから、彼はよく、【ふん、何を言ってやがるんだい、ケチな皮肉屋め!】と応酬したものである。で、彼は途々《みちみち》、【もし、奴さんがこの俺を見て笑いころげなかったら、それこそてっきり、何もかもがあるべきところについている確かな証拠だ】と考えた。ところが、その八等官も別に何とも言わなかった。【しめ、しめ! どんなもんだい、畜生!】と、コワリョーフは肚の中で考えた。帰る途中で、娘をつれた佐官夫人ポドトチナに出会ったので、挨拶をすると、歓声をあげて迎えてくれた。して見れば、彼の身には何の欠陥もない訳だ。彼は婦人連とかなり長いあいだ立ち話をしていたが、ことさら嗅ぎ煙草入れを取り出して、彼女たちの前でとてもゆっくりと二つの鼻の孔へ煙草を詰めこんで見せながら、肚の中では、【へ、どんなもんだね、牝鶏《めんどり》さん! だが、どのみち娘さんとは結婚しませんよ。ただ、単に Par amour《パーラムール》(色ごととして)ならお相伴しますがね!】と、空嘯《うそぶ》いていた。さて、それ以来コワリョーフ少佐はまるで何事もなかったように、ネフスキイ通りだの、方々の劇場だの、その他いたるところへ遊びに出かけた。同じように鼻も、やはり何事もなかったように、彼の顔に落着いて、他所へ逃げ出そうなどという気配《けはい》は少しも見せなかった。それから後というものは、コワリョーフ少佐はいつ見ても上機嫌で、にこにこ微笑《わら》っており、美しい女という女を片っ端から追っかけまわしていたものだ。そればかりか、一度などは百軒店《ゴスチンヌイ・ドゥオール》の或る店先に立ちどまって、何か勲章の綬のようなものを買っていたが、いったい、それをどうするつもりなのかさっぱり見当がつかなかった、というのは、まだ御本人が勲章など一つも持っていなかったからである。
 さて、我が広大なるロシアの北方の首都《みやこ》に突発した事件というのは、以上のようなものであった! つらつら考えて見るに、どうもこれには真実《まこと》らしからぬ点が多々ある。鼻が勝手に逃げ出して、五等官の姿で各所に現われるというような、まるで超自然的な奇怪事はしばらく措くとして――コワリョーフともあろう人間に、どうして新聞に鼻の広告など出せるものではないくらいのことがわからなかったのだろう? こう申したからとて、別に、広告料がお安くなさそうだったからというような意味ではない。そんなものは高が知れているし、第一わたしは、それほどがりがり亡者でもない。が、どうもそれは穏かでない、まずい、いけない! それにまた、焼いたパンの中から鼻が飛び出したなどというのも訝《おか》しいし、当のイワン・ヤーコウレヴィッチはいったいどうしたのだろう?……いや、わたしにはどうもわからない、さっぱり訳がわからない! が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益《ため》には少しもならず、第二に……いや、第二にも矢張り利益《ため》にはならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
 だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにもあり勝ちなことだから――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ――稀にではあるが、あることはあり得るのである。
[#地から3字上げ]一八三三―一八三五年作

   訳注

 プード――重量単位、一六・三八キロに当る。
 カザンスキ大伽藍――アレクサンドル一世が当時の著名な建築家ウォロニヒンをして造営せしめた大伽藍(一八一一年竣工)で、優美な円頂閣やコリント式の豪華な柱廊に結構をきわめている。
 スパニエル――愛玩用の小形の尨犬。
 北方の蜂――一八〇七年ペテルブルグで発刊された月刊雑誌。同じくペテルブルグで一八二五年から四十年間
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