。」そう言っておきながら、さて肚の中では、【大変《こと》だぞ、もしやイワンが『いいえ、旦那様、にきびどころか、肝腎の鼻がありゃしませんや!』とでも言ったらどうしよう!】と思った。
 しかし、イワンは「何ともありませんよ。にきびなんか一つもありません。きれいなお鼻でございますよ!」と言った。
【ちぇっ、どんなもんだい!】と、少佐は心の中で歓声をあげて、パチンと指を鳴らした。その時、入口からひょっこり姿を現わしたのは理髪師《とこや》のイワン・ヤーコウレヴィッチであったが、その動作《ものごし》はたった今、脂肉を盗んで殴《ぶ》ちのめされた猫みたいに、おどおどしていた。
「第一、手はきれいか?」と、コワリョーフはまだ遠くから呶鳴りつけた。
「へえ、きれいで。」
「嘘をつけ!」
「ほんとに、きれいですよ、旦那様。」
「ようし、見ておれ!」
 コワリョーフは腰をおろした。イワン・ヤーコウレヴィッチは彼に白い布をかけると、刷毛を使って見る見る彼の頤髯と頬の一部をば、まるで商人の家の命名日《なづけび》に出されるクリームのようにしてしまった。【なるほどなあ!】と、イワン・ヤーコウレヴィッチは例の鼻をじろりと眺めながら心の中でつぶやいた。それから今度は反対側へ小首を傾げて、横側から鼻を眺めた。【へへえ! 実際、考えてみるてえとなあ、まったくどうも。】と心でつぶやきつづけながら、彼は長いあいだ鼻を眺めていた。が、やがて、そっとできるだけ用心ぶかく二本の指をあげて、鼻のさきを摘もうとした。こうするのがそもそも、イワン・ヤーコウレヴィッチの方式であった。
「おい、こら、こら、何をするんだ!」と、コワリョーフが呶鳴りつけた。イワン・ヤーコウレヴィッチはびっくりして両手をひくと、ついぞこれまでになく狼狽してしまった。が、やがてのことに、注意ぶかく顎の下へ剃刀を軽くあてはじめると、相手の嗅覚器官に指をかけないで顔を剃《あた》るということは、どうも勝手が違って、やり難かったけれど、それでもまあ、ざらざらした親指を相手の頬と下|歯齦《はぐき》にかけただけで、ついに万難を排して、ともかくも剃りあげたものである。
 それがすっかり片づくと、コワリョーフはすぐさま大急ぎで衣服を改め、辻馬車を雇って真直に菓子屋へ乗りつけた。店へ入るなり、彼はまだ遠くから、「小僧っ、チョコレート一杯!」と呶鳴ったが、それと同時に
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