。眼からは涙がにじみ出した。そこで彼は、くだんの紳士に向かって、お前は五等官の贋物だ、お前はペテン師で悪党だ、お前は俺の鼻以外の何者でもないのだと、単刀直入に言ってやろうと心を取り直した……。が、鼻はもう、そこにはいなかった。また誰かのところへ挨拶をしに、まんまと擦りぬけて行ってしまったのだろう。
 コワリョーフは会堂の外へ出た。ちょうど好い時刻で、陽はさんさんとして輝いており、ネフスキイ通りは黒山のような人出であった。婦人連も、まるで洪水のように押し流されている。……
 おや、彼の知り合いの七等官がやって来る。コワリョーフはこの男のことを中佐中佐と呼んでいた。殊に局外者の前でそう呼んだものである。あ、向こうにカルイジキンの姿も見える。これは大審院の一係長で、彼とは大の親友だが、ボストン・カルタを八人でやると、いつも負けてばかりいる男だ。おや、あすこから、コーカサスで八等官にありついた、もう一人の少佐が、こちらへ手を振っておいでおいでをやっている……。
【ちぇっ、くそ喰えだ!】コワリョーフはこう呟いてから、「おい、辻馬車! まっすぐに警察部長のところへやれ!」
 コワリョーフは馬車に乗り込むと、「全速力でやれ!」と、ひたすら馭者をせきたてた。
「警察部長は御在宅ですか?」と、玄関へ入るなり彼は呶鳴った。
「いや、おいでになりませんよ。」という玄関番の答えだ。「たった今お出かけになったばかりで。」
「さあ、困ったぞ!」
「はい、まったく、」と玄関番はつけ加えた。「それもつい今しがたお出かけになりましたので。もう、ほんの一分も早ければ、御面会になれたかもしれませんのに。」
 コワリョーフはハンカチを顔にあてたまま、馬車に乗りこむと、自暴《やけ》くそな声で「さあ、やれ!」と呶鳴った。
「どちらへ?」と馬車屋が訊ねた。
「真直ぐに行け!」
「え? 真直ぐにね? だってここは曲り角ですぜ。右へですか、それとも左ですか?」
 この問いがコワリョーフの心を制して、再び彼を考えさせた。かような事態に立ち至ったかぎりは、さしあたり治安の府に訴えるのが順当であった。というのは、直接これが警察に関係のある事件だからというよりも、警察の手配が他のどこよりもはるかに敏速に行なわれるからであって、鼻が勤めていると言った役所の手を経て満足な結果を期待しようなどとは、まったく沙汰のかぎりで、すでに
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