悪魔の身内がこちらの言ひ分を聴き入れようが入れまいが、兎にも角にも用件を切り出すより他はなかつた。と、醜面《しこづら》の化物たちが耳を※[#「奇+攴」、第3水準1−85−9]てて手をさしだした。祖父はその意を悟つて、持ちあはせの銭を残らず掴み出して、犬にでも呉れてやるやうに、それを一同のまんなかへ投げだした。彼が銭を投げ出すや否や、眼の前の化物どもはごつた返しに入り乱れ、大地がぐらぐらと揺れ動いて、てつきり、これは地獄へ陥ちてしまつたのではないかと思はれるくらゐ――祖父は語るべき言葉も知らなかつたほどである。※[#始め二重括弧、1−2−54]ほい、これあ叶はん!※[#終わり二重括弧、1−2−55]けろけろとあたりを見まはしながら祖父は嘆声をもらした。なんといふ妖怪《ばけもの》どもだらう! どいつもこいつも見られた面《つら》ぢやない。おつそろしい数の妖女《ウェーヂマ》が、まるで降誕祭の頃に降る雪のやうに、うじやうじやと集《たか》つて、それが定期市《ヤールマルカ》へ出かけた令嬢方《パンノチカ》そこのけに、デカデカと飾り立てて粧しこんでゐる。そして、そこにゐるほどの妖女《ウェーヂマ》といふ妖女《ウェーヂマ》が残らず、酔つぱらつたやうな恰好で、珍妙な悪魔の踊りををどつてゐるのだ。その又、おつそろしく埃りを立てをることと言つたら! 一と目、その悪魔の身内どもが空高く宙を翔ける有様を見たならば、洗礼を受けた基督教徒は思はず顫へあがつたことだらう。また、犬のやうな鼻面の悪魔どもが、独逸人そつくりの細い脚で立つて、尻尾をくるくる振りまはしながら、ちやうど、若い衆が美しい娘にするやうに、妖女《ウェーヂマ》たちをとりまいてじやらついたり、楽師どもが太鼓を打つやうに、われとわが頬を打ち、角笛を吹くやうに鼻を鳴らしなどするのを見ては、すべてのおそろしさも打ち忘れてプッと噴飯《ふきだ》さずにはゐられなかつた。祖父の姿を見つけると、そいつらが犇々とこちらへ押しよせて来るのだ。豚のやうな、犬のやうな、山羊のやうな、鴇《のがん》のやうな、馬のやうな、様々の鼻面が、いちどきにぬつと頸をのばして、祖父の顔をペロペロと舐めまはしたものだ。その穢ならしさに祖父はペッと唾を吐いた。だが結局、彼は一同につかまへられて、長さがコノトープからバトゥーリンまでの道程ほどもある大食卓にむかつて席につかせられた。※[#始め二重括弧、1−2−54]うん、これあまんざらでもないぞ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]祖父は、食卓のうへに並べられた豚肉や腸詰や、それから玉菜《キャベツ》と一緒に微塵切りにした玉葱や、その他さまざまの美味《うま》さうな御馳走を見ると、心ひそかに呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]なるほど、魔性の悪党どもが精進を守るわけはあるまいて。※[#終わり二重括弧、1−2−55]ところで御承知おき願はねばならぬことは、この祖父といふのがまた、至つて健啖家で、何かにのきらひなく、むしやむしや頬張る機会を逃す人ではなかつたことぢや。頗るつきの喰らひ抜けと来てゐたので、碌々はなしにも身を入れず、刻んだ豚脂《ベーコン》の入つた鉢と燻豚《ハム》とを引き寄せると、百姓が乾草を掻きよせる熊手とあまり大きさの違はないやうな肉叉《フォーク》をとりあげて、それでもつて一番重たさうな一と片《きれ》を突き刺した。それに麺麭を一※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]り取りそへて、やをら、口へ持つていつたつもりだつたが、はて面妖な、それは自分の直ぐ脇にゐた奴の口へ入つてゐた。そしてすぐ耳もとで、どいつだか、ガツガツと、食卓ぢゆうに響きわたるやうな歯音を立てながら、口を動かしてゐるけはひが聞えるばかり。祖父の口へは何一つ入つちやゐない。そこで今度はまた別の片《きれ》を取りあげたが、ちよつと唇に触つたと思つただけで、自分の咽喉へは通らなかつた。三度目もやはり同じやうにわきへ外《そ》れてしまつた。赫つと腹を立てた祖父は、怖ろしさも、自分が何者の手中に落ちてゐるかも忘れて、妖女《ウェーヂマ》どもに喰つてかかつた。『いつたい全体、汝《うぬ》たちヘロデの後裔《ちすぢ》どもめは、このおれを嘲弄してけつかるのか! たつた今、おれの哥薩克帽を返してよこせばよし、さもないと汝《うぬ》たちの豚面を項《うなじ》の方へ向けて捩ぢまげて呉れるぞ!』その言葉の終るのも待たずに、すべての妖怪どもは歯を剥き出して、祖父の魂がぞつと慄へあがつたほど、物凄い笑ひ声をあげた。
「よござんす!」と妖女《ウェーヂマ》の一人が金切声で叫んだ。それは仲間のうちのどいつより、きたない面をしてゐたから、多分、一番|年長《としかさ》のやつに違ひないと祖父は考へた。「帽子は返してあげるけれど、その前に妾たちと三度だけ※[#始め二重括弧、1−2−54]阿房《ドゥールニャ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]の手合せをしてからでなきや駄目だよ。」
 さてなんとしたものだらう? 哥薩克ともある者が女《あま》つこどもの仲間へ入つて※[#始め二重括弧、1−2−54]阿房《ドゥールニャ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]をやるなんて! 祖父は飽くまで潔よしとしなかつたけれど、たうとうしまひに勝負をすることにきめた。そこで骨牌《トランプ》が持ち出されたが、それは、祭司の娘が未来の花聟を占ふ時ぐらゐにしか用ゐないやうな、手垢だらけの薄ぎたない札だつた。
「さあ、よろしいかね!」と、例の妖女《ウェーヂマ》が再び吠えるやうに言つた。「もしお前さんが一度でも勝負に勝てば、帽子はお前さんに返してあげるけれど、三度ともつづけて負けたら、お気の毒だが帽子だけではなしに、お前さんの命もいつしよに、こちらへ貰ひますよ!」
「札を配りやあがれ、耄碌婆あめ! なんとでも、なるやうになるのぢや。」
 そこで骨牌が配られた。祖父は自分の札を手に取つたが――まつたく見るのも厭な、悪い手だ。まるで切札なんか一枚もなく、やつと並札《なみ》の十が上々で、揃札《くつつき》ひとつないのに、妖女《ウェーヂマ》の方では後からあとから二二一《ピャチェリク》ばかり揃へやがる。たうとう負けになつてしまつた! 祖父が負けといふことにきまると同時に、四方八方から馬のやうな、犬のやうな、豚のやうな、さまざまな鳴き声で妖怪どもが※[#始め二重括弧、1−2−54]阿房《ドゥーレン》、阿房《ドゥーレン》、阿房《ドゥーレン》!※[#終わり二重括弧、1−2−55]とほざき立てた。
「ええつ、汝《うぬ》たち悪魔のみうちめ、とつとと消え失せやがればいいに!」指をあてて耳に蓋をしながら、祖父が呶鳴つた。そして心の中で※[#始め二重括弧、1−2−54]さては妖女《ウェーヂマ》め、いかさまをしをつたな、ぢやあ今度はひとつ俺が配つてやらう※[#終わり二重括弧、1−2−55]と考へた。そこで彼は牌を配つて、切札を宣告した。自分の牌を見ると、素晴らしい手で、切札もある。最初のうちはこのうへもない上々の首尾で勝負が進んだ。ところが妖女《ウェーヂマ》め、又もや王牌《キング》入の二二一《ピャチェリク》をならべをつた! 祖父の手は切札ぞろひと来てゐる! 碌々思案もせずに、祖父は王牌《キング》の髭面に素早く切札を叩きつけた。
「おつと、どつこい! それあ哥薩克らしくないやり方だよ! いつたいお前さん、なにで切りなさるのぢや?」
「なにで切るとはなんぢや? いはずと知れた、切札で切つたのぢや!」
「ひよつとしたら、お前さんがたの方ではそれが切札なのかもしれないが、妾たちの方では、さうぢやないんだよ!」
 見れば、なるほどそれは普通《ただ》の牌だ。奇態なこともあるものだ! 今度も負けになつてしまつた。そして妖怪どもは又しても声を張りあげて※[#始め二重括弧、1−2−54]阿房《ドゥーレン》! 阿房《ドゥーレン》!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と喚き立てた。それがために卓子がガタビシ揺れて、骨牌の札が卓子の上で躍りあがつた。祖父は躍起になつて、いよいよ最後の、三囘目の札を配つた。勝負は再び順調に進んだ。妖女《ウェーヂマ》が又しても二二一《ピャチェリク》を揃へた。祖父はそれを殺しておいて、堆牌《やま》から札を取ると、それがどれもこれも切札ばかりだ。「切札!」と叫んで彼は、その札が笊《ざる》のやうに反りかへつたほど力まかせに卓子へ叩きつけた。相手は何にも言はずに普通牌《なみふだ》の八をその上へ重ねて置いた。
「いつたい何で殺さうつてんだ、この古狸め?」
 妖女《ウェーヂマ》は自分の置いた牌《ふだ》を取りあげた。と、その下にあるのは普通牌《なみふだ》の六だつた。
「ちえつ、悪魔め、誤魔化しやあがつて!」さう言つて祖父は腹立ちまぎれに、拳を振りあげて、力まかせに卓子をたたきつけた。だが、まだしも仕合はせなことには、妖女《ウェーヂマ》の手が余り香ばしくなくて、祖父の手に今度はお誂へむきな揃札《くつつき》が出来た。そこで堆牌《やま》から札をめくりにかかつたが、いやもう我慢も出来ないやうな、碌でもないものばかり起きてくるので、祖父はがつかりしてしまつた。ところが堆牌《やま》がすつかりになつてしまつた。彼は、もうかうなれば破れかぶれだとばかりに、六の普通牌《なみふだ》を打つた。と、妖女《ウェーヂマ》がそれを受け取つた。
「おやおや! これあ又、いつたいどうしたといふのぢや? うへつ! なんだかこれあ、少しをかしいぞ!」
 そこで祖父は自分の牌《ふだ》をそつと卓子の下へ匿して十字を切つた。と、どうだらう、持牌《もちふだ》は切札の|A牌《ポイント》に王牌《キング》に兵牌《ジャツク》で、彼が前《さき》に打つたのは六ではなくて后牌《クヰーン》だつたのだ。
「ええ、なるほどおれは馬鹿ぢやつたわい! 切札の王牌《キング》! どうぢや! 取つたか? 猫の後裔《すゑ》め! |A牌《ポイント》はいらんか? |A牌《ポイント》! 兵牌《ジャツク》! ……」
 物凄い雷霆が鳴りはためいた。妖女《ウェーヂマ》はぢだんだ踏んだ。すると、どこからともなく、まともに祖父の顔をめがけて帽子が飛んで来た。
「いんにや、これだけぢやあ足りないぞ!」と、俄かに活気づいた祖父は、帽子をかぶりながら、喚いた。「おれの駿馬を即刻この場へ出しをればよし、さもなければおれは、たとへこの穢らはしい場所で雷に撃たれやうとどうしようと、汝《うぬ》たちに対つてあらたかな十字架で十字を切らずには措かぬぞ!」
 そして今にも彼が手をあげようとした時、不意にすさまじい物音がして、祖父の面前へ骸骨の馬が現はれた。
「そら、これがお前さんの馬だよ!」
 それを見ると、哀れな祖父は、たわいない稚な子のやうに、おいおいと声をあげて泣き出した。古馴染の愛馬に対する憐愍の情に堪へなかつたのぢや!『どんな馬でも一頭、手前たちの巣窟《あな》から選り出してくれえ!』悪魔が長い鞭を一と振りすると、電光石火の早技《はやわざ》で一頭の馬が祖父を背に乗せてパッと跳ねあがつた。同時に祖父は飛鳥のやうに上空へと舞ひあがつた。
 だが、途中でその馬が、制する声も手綱さばきも聴かばこそ、崩穴《がけ》や沼地のうへを飛び越え跳ね越えする時には、祖父は生きた心地もなかつたといふ。到るところ、話に聞いただけでも、ぞつとするやうな難所ばかりを通つた。ふと、足もとを見ると、更に驚ろいた。そこは絶壁だ! 怖ろしい懸崖だ! 然も魔性の生物は一向お構ひなしに、まともに飛び下りるのだ。祖父はしつかり身を支へようとしたが、間にあはなかつた。彼のからだは木の株や土くれの上を翻筋斗《もんどり》うつて、まつさかさまに断崖を転げ落ちて行つた。そして谷底に達すると共に、いやといふほど地面へ叩きつけられたため、祖父はハタと息の根が停つてしまつたやうに思つた。少くともその刹那、自分がいつたいどうなつたのか、まるで記憶《おぼえ》がなかつたといふ。やうやく正気に返つてあたりを見まはした時には、もう夜が明けはなれてをり、あたりの様子にどうやら見憶えがあるやうに思つたの
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