今どきのそれとは、てんで較べものにもなんにもなつたものぢやない。のうのうと手足を伸ばしたり、*ゴルリッツアやゴパックを踊るなどといふ訳にいかなかつたのは勿論のこと、頭へ酔がのぼつて、足が自然に手習ひをしはじめても、横になつて休む場所もないといふ始末だつた。内庭は荷馬車が一杯で、立錐の余地もなく、納屋のわきや、秣槽《まぐさをけ》のなかや、玄関などには、からだをくの字型に曲げたり、ふんぞり返つたりした、いぎたない連中が、まるで蟒《うはばみ》のやうな大鼾をかいてゐた。ひとり酒場の亭主だけは油燈《カガニェツツ》の前で、荷馬車ひきどもが酒を何升何合飲み乾したかといふ目標《めじるし》を棒切れに刻みつけてゐた。祖父は三人前として二升ばかり酒を注文して、納屋へ陣取つたものだ。三人は並んで、ごろりと横になつた。祖父がふと振りかへつて見ると、二人の仲間はもう死んだやうにぐつすり寐こんでゐる。祖父はいつしよに泊つた、くだんのもう一人の哥薩克を起して、さつきザポロージェ人と約束したことを思ひ出させた。その男は半身を起して眼を擦《こす》つただけで再び寐こんでしまつた。どうも仕方がない。一人きりで見張りをしなければならぬことになつた。どうにかして眠気を払ひのけようものと、祖父は荷馬車を片つぱしから残らず見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたり、馬のところへ行つて見たり、煙草を燻らしたりしてから、再びもとのところへ戻つて、仲間の傍らに坐りこんだ。あたりはしいんと静まりかへつて、蠅の羽音ひとつ聞えぬ。ふと彼の眼には、すぐ隣りの荷馬車の蔭から何か灰色のものが角を出したやうに思はれた……。それと同時に、両の眼がひとりでに細くなつて今にも閉ざされさうになる。それで彼はひつきりなしに、拳しで眼をこすつたり、飲みあましの火酒《ウォツカ》を眼にさしたりしなければならなかつた。しかし、少し眼がはつきりして来るとともに、変化《へんげ》の影は消え失せた。ところが、又しばらくすると、荷馬車の蔭から妖怪が姿を現はす……。祖父は根かぎり眼を瞠《みは》つてゐたが、呪はしい睡魔が、執念く彼の眼の前の物象《もの》を曇らせてしまつた。両手のおぼえがなくなり、首ががつくり前へさがると、激しい睡気に襲はれた彼は、まるで正体もなく、その場へぶつ倒れてしまつた。長いあひだ祖父はぐつすり寐込んでゐた。その坊主頭にじかじかと朝日が照りつけた時、彼はやつと正気づいて跳ね起きた。二度ばかり伸びをして、背筋をポリポリ掻きながら、ふと見れば、荷馬車の数が昨夜ほど多くは残つてゐない。馬車ひき連中は夜明け前に発つてしまつたものと見える。我れに返つて、さて仲間はと見ると、くだんの哥薩克は傍らに寝てゐるが、ザポロージェ人の姿が見えぬ。問ひ糺して見ても誰ひとり知つてゐる者がない。ただその場に外套がひとつ残つてゐるきりだ。祖父は恐怖と疑念に捉へられた。馬はどうかと、行つて見れば、自分の馬もザポロージェ人の馬もゐない! これは一体どうしたことだらう? なるほど、ザポロージェ人は悪霊の手に浚つて行かれたにしても、馬は一体どうしたといふのだらう? とつおいつ思案にくれた挙句、祖父はかういふ結論に達した――悪魔の奴はてつきり徒歩《かち》でやつて来をつたのにちがひない、ところが地獄までは決して近い道程《みちのり》ではないから、さてはおれの馬まで失敬してゆきをつたのだらう、と。彼は哥薩克の誓ひを守りおほせなかつたことが返すがへすも残念だつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]まあいいさ、※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は考へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]どうも仕方がない、徒歩で出かけることにしよう。ひよつと途中で定期市《ヤールマルカ》がへりの博労にでも出会つたら、また、なんとかして馬を買ふことぢや。※[#終わり二重括弧、1−2−55]で、彼は帽子をかぶらうとしたが、その帽子が見当らぬ。考へて見ると、昨日あのザポロージェ人と、ちよつと帽子の取り換へつこをしたままになつてゐたのだ。祖父は、ぢだんだ踏んで口惜しがつた。何から何まで悪魔の手にしてやられてしまつたのだ! ほいほい大総帥《ゲトマン》からの恩賞も水の泡だ! 女帝への上書が飛んでもないものの手に渡つてしまつたのだ! ここで祖父はくそみそに悪魔を罵つたから、さぞかし、悪魔の奴、地獄で何度も嚔《くさ》めをしたことだらう。だが、いくら悪態をついてみたところで今更なんの役に立つ筈もなく、祖父が何べん項《うなじ》を掻いても好い分別は浮かばなかつた。はて、どうしたものだらう? そこで結局、他人の智慧を借りることにした。ちやうどそのとき酒場にゐあはせた、堅気な人たちや、馬車ひきや、ちよつと立ち寄つただけの客などを集めて、かくかくの次第でまことに困つたことが出来《しゆつたい》してしまつたと、一部始終を打ち明けた。馬車ひきどもは棒を頤杖について、しきりに首を傾げながら長いあひだ考へてゐたが、この基督教国で大総帥《ゲトマン》からの上書を悪魔がかつ浚つて行つたなどといふ面妖な話は、つひぞこれまで聞いたこともないと言つた。他の連中はまた、悪魔と大露西亜人《モスカーリ》にかつぱらはれたものは決して二度と再び手に戻ることがないとつけ加へた。ただひとり酒場の亭主だけは、なんにも言わずに部屋の隅に坐つてゐた。祖父はそこで亭主の方へ近寄つた。総じて人が口を噤んでゐるのは、いい分別を持つてゐる証拠だ。ただ、この亭主はあまり口の軽い方でなかつたから、祖父が五|留《ルーブリ》金貨を一つ衣嚢《かくし》からつまみ出さなかつたものなら、彼はなんの得るところもなく、いつまでも亭主の前に棒だちに立ちつくしたに過ぎなかつただらう。
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ゴルリッツア 小露西亜の代表的な舞踊の一種。
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「それぢやあ、その上書をどうして見つけたものか、ひとつお前さんに教へて進ぜやんせう。」と、亭主は祖父を傍らへ呼んで言つた。祖父はほつと胸をなでおろした。「わつしは、一と目でお前さんが歴乎とした哥薩克で、決して意気地なしでねえことを見抜きましたわい。そうら見なされ! この酒場からほんの僅かゆくと、道が右手へをれて森の中へ入つてをる。野原がうつすら暗くなる頃、仕度をととのへて出かけなさるのぢや。あの森の中にはジプシイが住んでをつて、妖女《ウェーヂマ》が火掻棒に跨がつて空を翔けまはるやうな晩に限つて、巣窟《あな》から出てきて、鉄を煉《う》つのぢや。だが、そのジプシイ共が実際どんな生業《しやうばい》をしてをるのか、そんなことは知らなくともよい。森の中でやたらにトンカントンカンと音がする筈ぢやが、その音の聞えて来る方角へは行かぬことぢや。そのうちに焼け残りの立木のそばを過《よ》ぎる小径へひよつこり出るから、その小径についてずんずん先きへゆきなされ……。さうすると、やたらに茨の棘《とげ》がひつかかり出して、道は深い榛《はしばみ》の叢みの中へはいるが、それでもかまはず、さきへさきへと行かつしやれ。すると小さな小川の縁へ出るだから、そこで初めて足をとめなさるのぢや。用のある相手にそこで会はつしやるぢやらう。それから衣嚢《かくし》の中から、そもそも衣嚢《かくし》といふものが作られてをる由緒いはれの本尊仏を取り出すことを忘れなさるなよ……。そのお宝といふやつを好くことには、悪魔も人間もとんと変りがないのぢやから。」これだけ言つておいて、酒場の亭主は帳場の中へ入つてしまふと、もうそれ以上は一と言も口をきかなかつた。
祖父は胆つ玉の小さい十把一紮げの人間ではなかつた。或る時など、狼に出喰はすと、いきなりその尻尾を掴んで、生捕にしたものぢや。また哥薩克の群がる中を彼が拳しを振りまはしながら通ると、一同はまるで梨の実のやうに大地へ叩き伏せられてしまつたものぢや。とはいふものの、夜が更けて、いよいよその森の中へ足を踏みこんだ時には、さすがの祖父も肌寒い思ひがしたさうぢや。空には星影一つ見えなかつた。まるで酒窖《さかぐら》の中のやうに真暗で、物の文目《あやめ》も分らなかつた。ただ頭上はるかの梢を吹き渡る冷たい夜風の音が聞えるばかりで、樹々はあたかも酔ひしれた哥薩克の頭のやうに、だらしなく揺れながら、管を巻くやうな葉ずれの音を立ててゐる……。不意にぞうつとするやうな寒けがして、祖父は思はず羊皮の外套を心に浮かべたさうぢやが、そのとき突然、まるで掛矢の百挺も打ちおろしたかと思はれるやうな凄い物音が森ぢゆうに響き渡つて、頭の中がガーンと鳴り出したほどぢやつたといふ。それと同時に一瞬、雷光《いなづま》のやうに森中がパッと照らし出されたのぢや。咄嗟に祖父は細い灌木のあひだを縫ふやうに走つてゐる小径を見てとつた。それから焼け残つた立木もあり、茨の叢《やぶ》もある! 聴かされたとほり寸分の違ひもない。なるほど酒場の亭主め嘘はつかなかつたわい。だが、刺のあるくさむらを押し分けて通り抜けるのは、なかなか楽な仕事ではなかつた。なんともはや、こんなに痛く手足をひつかく刺や枝といふものには生まれて初めてお目にかかる次第で。殆んど一と足ごとに祖父は悲鳴をあげたものぢや。しかし先きへ進むにつれて、だんだんあたりがひらけ、木立が疎らになつて、これまで祖父が波蘭《ポーランド》の彼方《むかふ》でも、つひぞ見たことのないやうな、恐ろしくひろびろとしたところへ出た。木立のあひだから、まるで磨ぎすました鋼鉄のやうな、黒々とした小川の流れが見える。祖父はあたりを見まはしながら、しばらくその岸に立ちつくした。むかふ岸に火が燃えてゐる。それが今にも消えさうに見えるかと思ふと、またパッと燃えたつて、哥薩克の手に捉まへられた波蘭の貴族のやうにブルブル顫へてゐる川の波に反映するのだ。おや橋がある! ※[#始め二重括弧、1−2−54]さあ、ここを渡るのは悪魔の乗つた二輪馬車より他《ほか》にはあるまいて。※[#終わり二重括弧、1−2−55]だが、祖父は大胆にも歩を進めた。そして、人が一服やらうとして嗅煙草入を取り出すのよりてつとり早く、むかふ岸へ渡つてゐた。見れば焚火をかこんでゐるのは一群れの妖怪で、そのみつともいい御面相といつたら、これが他《ほか》の場合だつたら、何を犠牲にしたつて、こんな化物とちかづきになるのは真平だつたらう。しかし、今は是が非でもわたりをつけなくちやならない。そこで祖父は、妖怪どもに向つて馬鹿叮嚀に腰をかがめて、『今晩は、皆の衆!』と挨拶をした。ところが、会釈ひとつ返す奴でもあらうことか、黙りこくつて坐つたまま、何かしら怪しげなものを、しきりに火の中へふり撒いてばかりゐくさる。一つ空いてる場所があつたので、祖父は遠慮会釈なしにそこへ坐りこんだ。だが、その御面相の綺麗な妖怪どもは、依然として黙りこくつてゐる。祖父も何ひとこと言はぬ。一同は長いあひだ、無言のままで坐りとほした。祖父はもうそろそろ退屈になつてしまつた。そこで衣嚢《かくし》をまさぐつて煙管を取り出しながら、あたりを一とわたり見まはしたが、どいつ一匹こちらに注意をしてゐる奴もない。『さてなんぢや、皆の衆、甚だもつて申しかねることぢやが、その、いはばなんぢやて、(祖父は酸いも甘いも噛みわけた苦労人で、駄弁を弄してバツをあはせる術《て》もよく心得てゐたので、たとへ皇帝《ツァーリ》の前へ出ても決して戸惑ひするやうなことは万々なかつた)いはばその、甚だ勝手なことを申すやうぢやが、どうか悪く思はんで頂きたい――かうしてわしは煙管《パイプ》を持つてをるにはをるけれど、生憎と、これに、その、火をつけるべき物の持ちあはせがないのぢやが。』こんな風に持ちかけてみても、やはりなんの手応へもない。ただ醜面《しこづら》の一匹が、真赤に火のついた、燃えさしの木切れを取りあげて、まともに祖父の眉間へ突きつけたので、もし彼が体《たい》をかはさなかつたものなら、恐らく永久に片方の眼玉におさらばを告げなければならなかつたことだらう。空しく時刻《とき》のうつるのを見て、つひに彼は、この
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