も道理、祖父は他ならぬ我が家の屋の棟に投げ出されてゐたのぢや。
地面へ降り立つと、祖父は十字を切つた。なんといふ悪魔の所業ぢやらう! 飛んでもない、なんといふ不思議な目に遭つたことぢやらう! 両の手を見れば、すつかり血だらけ、水を張つた桶を覗いて見れば、顔も同じやうに血だらけなのぢや。子供たちを吃驚させるでもないと思つて、丁寧に顔や手を洗つて、祖父はこつそり家のなかへ入つていつたが、見ると、こちらへ背を向けて後ずさりをしながら子供たちが、怖ろしさうにむかふを指さして『あれ! あれ! お母《つか》さんが、きちがひみたいに踊つてるよ!』といふ。なるほど、見れば、麻梳《あさこき》を前にして、紡錘《つむ》を握つた女房が、ぼうつとして腰掛に坐つたまま、踊つてをるのぢや。祖父はそつとその手を掴んで、妻を揺りさました。『これ、今帰つたぞ! お前どうかしやせんのかい?』祖父のつれあひは長いあひだ、眼を瞠つたまま、きよとんとしてゐたが、やつと良人の姿に気がつくと、煖炉《ペチカ》が家のなかぢゆうを歩きまはつて鋤や壺や盥を戸外《そと》へ追ひ出しただの……なんだのと、さつぱり辻褄のあはぬ夢を見てゐたのだと話した。『なあに、』と、祖父が言つた。『お前は夢に見ただけぢやが、おらは現つで酷い目に会つたわい。一度この家《うち》の祓ひをせにやなるまいが、今は愚図々々しちやゐられんのぢや。』さう言つて、祖父はちよつと休んだだけで、馬の都合をつけると、今度こそ夜を日についで、決して道草などは食はずに、目的地へと直行して、国書を親しく女帝の闕下に捧呈したのぢや。宮中で目撃した様々の奇らしい事柄は、その後久しいあひだ、祖父の語り草となつた。彼が参内した御所の棟の高かつたことといへば、普通の家を十《とを》も上へ積みあげても、まだ足りないほどだつたこと、御座所はここかとうかがつたが違つてゐる、次ぎの間かと思つたがそこでもない、三番目も四番目もまださうでなかつたが、やつと五番目の御間へとほると、金色燦然たる宝冠を戴き、真新《まつさら》な鼠色の長上衣《スヰートカ》に、赤い長靴を履かれた女帝が、御座所で黄金いろの煮団子《ガルーシュカ》を召しあがつておいでになつたこと、女帝が侍臣に命じて帽子に入るだけの*青紙幣《シーニッツア》を彼につかはされたこと等々……枚挙に暇もないくらゐ! だが、自分が悪魔を相手に演じた、くだん
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