ひぞ私は、」と、助役がその口尻を捉まへた。「村長が代官に昼餐を饗応したといふ話は聞き及びませんぢやて。」
「村長にもよりけりさ!」と、さも自慢さうに彼は言つた。その口が少しゆがんで一種の鈍重な、嗄がれた笑ひ、といふよりは寧ろ遠雷の響きに似た声が、その唇から漏れた。「どうぢやらうな、助役さん、かういふ貴賓には各戸から、応分の進物をとどけさせることにしては、雛鶏なり、麻布なり、そのほか何か。……ね?……」
「それあ、さうしなくつちやなりませんよ、是非とも、村長さん!」
「それで、婚礼はいつにするんで、お父《とつ》つあん?」と、レヴコーが訊ねた。
「婚礼だと? うん、その婚礼で貴様に思ひ知らせて呉れるのだけれど!……だが、まあ折角の貴賓の来臨に免じて我慢するとしよう……あす、坊さんを呼んで、貴様たちを結婚させてやる。ええ、どうも仕方がないわい! 几帳面たあどんなものだか、ひとつ代官に見せて呉れるのぢや! それはさて皆の衆、さあ、もう寝《やす》んで下され! 家へ帰つてよろしい!……今日のことにつけても想ひ出すわい、あのわしが……。」かう言ひながら、村長はいつもの癖で、容態ぶつた、意味深長な眼差を額ごしに投げた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]そうら、また親爺め、女帝陛下のお供をした時の話をはじめをるぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう、呟やきながらレヴコーは足ばやに、例の長《たけ》の低い桜樹《さくら》にかこまれた、馴染の小家をめざして、心も漫ろに急いでゐた。※[#始め二重括弧、1−2−54]気立が優しくて、姿の美しい令嬢《パンノチカ》、どうかあんたに天国のお恵みがありますやうに!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は心のなかで祈つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あんたが永久に聖い天使たちのあひだで笑つて暮すことができますやうに! 今夜の不思議な出来事は誰にも話すまい。ただハーリャ、お前だけには話してやらう。お前だけはおれの話を信じて、おれといつしよに、あの薄倖《ふしあはせ》な水死女の魂の安息のために祈るだらうから!※[#終わり二重括弧、1−2−55]やがて彼はくだんの小家へ近よつた。窓は開かれてゐた。月光は窓ごしに、彼の面前ですやすやと眠つてゐるハンナの顔を照らしてゐた。彼女は腕枕をして眠つてゐた。頬の色がほんのりと赧らんでゐた。唇がうごいて微かに彼の名を囁やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]おやすみ、おれの別嬪さん! そして世界ぢゆうで一番幸福な夢を御覧! だがどんな夢だつて、おれとお前の明日の目醒めに勝るやうな幸福な夢はなからうよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼は女にむかつて十字を切ると、窓を閉めて、こつそりそこを遠ざかつた。かくて数分の後には、村ぢゆうがすつかり眠りに落ちた。ただひとり月のみは相も変らず皓々として、豪華なウクライナの果しなき沙漠のやうな空にいみじくも浮かんでゐる。同じやうに、荘重な息吹《いぶき》が天上にも聞かれ、夜が、神々しい夜が、厳そかに更けて行く。妙なる銀《しろがね》の光りに包まれた地上もまた美しかつた。だが、最早それに見惚れる人の子は一人もなかつた。何もかもが深い睡りにおちてゐた。ただ時をり犬の遠吠えが束の間だけ沈黙《しじま》を破るのみで、酔ひしれたカレーニクはなほも自分の家をさがしながら、寝しづまつた往来を長いあひだうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。
[#地から2字上げ]――一八二九年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 前篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年7月30日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第8刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 前篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※「灯」と「燈」は新旧関係にあるので「灯」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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