眼はといへば――見て頂戴――涙で曇つて、なんにも見えないの! 見つけて頂戴な、若衆さん、あたしの継母《はは》を見つけて頂戴な!……※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 その声が急にうはずりかけたかと思ふと、彼女は口をつぐんでしまつた。涙がその蒼白い顔をつたつて流れおちた。憐憫と哀愁に充ちた重苦しい感情が、若者の胸もとへこみあげた。
「あなたのためなら、どんなことでもしますよ、お嬢様《パンノチカ》!」と、こころを動かされて彼が答へた。「でも、その女《ひと》を何処で捜し出したらいいでせう?」
※[#始め二重括弧、1−2−54]そら御覧なさいな、あすこを御覧なさいな!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と口ばやに処女《をとめ》が言つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あの女《ひと》はあすこにゐるのです! あの岸のうへで、あたしの仲間の乙女たちと円舞《ホロヲード》を踊りながら、お月様の光りでひなたぼつこをしてゐますの。けれどあの女《ひと》は悪賢こくて狡いの。自分もやつぱり水死女の姿に化けてゐますのよ。でもあたし知つててよ、あの女《ひと》がここにゐる気配がちやんと分るのですもの。あの女《ひと》のせゐで、あたし気が滅入つて、ほんとに切ないの。あの女《ひと》のゐる水のうへではお魚のやうに自由に泳げないの。鍵みたいに沈んで水底へ落つこちてしまふんですもの。あの女《ひと》を見つけて頂戴な、若衆さん!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 レヴコーは池の岸を眺めた。なよらかな銀いろの靄のなかで、鈴蘭の花の咲きみだれた牧場のやうに、白い下著をきた処女《をとめ》たちが、影のやうに軽やかに揺曳してゐる。黄金の頸飾や、南京玉の頸飾や、貨幣が彼女たちの頸でキラキラと光つた。しかし処女《をとめ》たちの顔は蒼白く、そのからだはまるで透明な霞で造られて、銀いろの月の光りに照り透されてゐるやうに見えた。円舞《ホロヲード》はたゆたひながら、だんだん彼の身ぢかへ接近して来た。話し声が聞えだした。
※[#始め二重括弧、1−2−54]さあさあ、鴉ごつこをしませうよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]静かな黄昏どきに、眼に見えぬ風の接吻に会つてさざめく河辺の芦のやうに、一同はざわめきだした。
※[#始め二重括弧、1−2−54]だれが鴉になるの?※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 籤がひかれた――そして一人の処女《をとめ》が列をはなれた。レヴコーはその処女を仔細に観察しはじめた。顔も着物も、すべて彼女は他の処女《をとめ》とおんなじだつた。ただその役割をいやいやつとめてゐることだけは明らかだつた。一同は長い列をなして、貪慾な敵の襲撃からすばやく身をかはしながら、あちらこちらへ逃げまはつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]ああ、あたし、もう鴉はいや!※[#終わり二重括弧、1−2−55]疲れてがつかりして、その処女《をとめ》が言つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]可哀さうなお母さん鳥の雛子《ひよつこ》をさらふなんて、むごいことよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
『あれは妖女《ウェーヂマ》ぢやあない!』とレヴコーは心のうちで呟やいた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]誰が鴉になつて?※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 処女《をとめ》たちは又もや籤びきをしようとした。
※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしが鴉になるわ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、一人の処女《をとめ》が申し出た。
 レヴコーは注意ぶかくその処女《をとめ》の顔を眺めにかかつた。すばしこく、大胆に、その女は他の処女《をとめ》を追ひまはして、獲物を捕へようとして四方八方へ飛びついて行つた。この時レヴコーは、彼女のからだが他の処女《をとめ》のやうには透きとほつて見えないことに気がついた。彼女のからだの中にはどこか黒ずんだところがあるのだつた。突然、叫び声があがつた。鴉が列のなかの一人にをどりかかつて、それを捉まへたのだ。レヴコーはその女の爪が剥きだされて、兇悪な喜びの色が顔に輝やいたやうに思つた。
「妖女《ウェーヂマ》だ!」と、彼は急にその女を指さしながら、館《やかた》の方を振りかへつて叫んだ。
 令嬢《パンノチカ》はにつこり微笑《わら》つた。すると処女《をとめ》たちは叫び声をあげながら、今まで鴉になつてゐた女をつれて、行つてしまつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]まあ、どうしてこのお礼をしたら好いでせうね、若い衆さん? あんたがお金なんか望んでゐないことは分つてゐますわ。あんたはハンナを想つてゐらつしやるのだけれど、むごいあなたのお父さんが結婚の邪魔をしてゐるのでしよ。でもこれからは邪魔をしなくつてよ。この手紙を持つて行つて、お父さんにお見せなさいな……。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 白い手がさしのべられると、その顔はいとも麗はしい光りを帯びて輝やきだした……。不思議な胸さわぎと、堪へがたい胸の動悸を覚えながら、彼はその手紙を受け取つた……と、そこで目が醒めた。

     六 目醒めて

※[#始め二重括弧、1−2−54]おれはほんとに眠つてゐたのだらうか?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、小さい丘から立ちあがりながら、レヴコーはひとりごちた。※[#始め二重括弧、1−2−54]まるで夢とは思へないくらゐ、まざまざとしてゐたつけなあ!……不思議なことだ、まつたく不思議なことだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう、彼はあたりを見まはしながら繰りかへした。彼の頭のうへにかかつてゐる月が、もう真夜中だといふことを物語つてゐた。どこもかしこも森閑としてゐる。池の面からは冷気が吹きわたり、その上には鎧扉を鎖したままの古い地主館《ぢぬしやかた》がいたましげに聳え立ち、はびこるにまかせた青苔や雑草は、すでに永の年月ここに人の住はぬことを物語つてゐる。ふと彼は、夢のあひだぢゆう痙攣的に握り緊めてゐた片方の手を開くと同時に、あつと叫んだ。――事実そこには手紙が掴まされてゐたのである。※[#始め二重括弧、1−2−54]ああ、おれに読み書きが出来たらなあ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼はそれを眼の前であちこちひつくり返して見ながら、呟やいた。その刹那、彼のうしろで物音がした。
「怖《こは》がるこたあない、いきなり彼奴を引つつかまへちまへ! 何をびくびくしとるんだ? 味方は多勢だぞ。確かにこいつは悪魔ではなくて人間だ!……」かう、村長が部下に向つて叫んだ。それと同時に、レヴコーは幾人もの腕にとり拉《ひし》がれるのを覚えたが、中には恐怖のためにぶるぶる顫へてゐるのもあつた。「畜生め、その怖ろしい仮面《めん》を脱ぎをれ! 人を愚弄するのも、もういい加減にしくされ!」彼の襟髪を掴んでかう言つた村長は、相手の顔に眼をそそぐと共に仰天してしまつた。「これあ、レヴコーだ! わしの忰だ!」彼は驚ろきのあまり、たじたじと後ずさりをして、ぐつたり手を落しながら喚いた。「それぢやあ、貴様だつたのか、くたばりぞこなひめ! この碌でなし野郎めが! わしは又、どこの悪党が皮外套《トゥループ》を裏がへしになど著てわるさをさらしをるかと思つたのに! みんな汝《うぬ》の仕業なのぢやな、――生煮えの葛湯《キッセリ》で汝《うぬ》の親爺が息をつめて斃《くたば》つてしまやあええ!――往来で乱暴を働らいたり、碌でもない歌を作つて唄つたりしをつて……。えいえい、レヴコー汝《おの》れはな! なんちふこつた? おほかた、どしやう骨を叩き折つて貰ひたいのぢやらう! こいつをふん縛れ!」
「待つておくれ、お父《とつ》つあん! この手紙をあづかつて来たんだよ。」と、レヴコーが言つた。
「ええい、今は手紙どころの騒ぎぢやないわい、この馬鹿者めが! さつさとこやつを縛つてしまへ!」
「お待ちなされ、村長さん!」と、その手紙を開きながら助役が言つた。「これあ、代官からの直筆ですぞ!」
「なに、代官からの?」
「代官からの?」と、村役人たちも機械的に繰りかへした。
※[#始め二重括弧、1−2−54]なに、代官からだつて? こいつは変だぞ! いよいよ分らなくなつたわい!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と心の中でレヴコーは考へた。
「読んでみて下され、読んでみて!」と村長が言つた。「何をいつたい、代官から言つてよこしたものか?」
「はあて、代官からいつたい何を言つてよこしたのか、拝聴するとしようか!」と、煙管を啣へて火を燧ちながら、蒸溜人《こして》が言つた。
 助役は咳ばらひをしてから読みはじめた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]一つ、村長エヴトゥーフ・マコゴニェンコに対する命令のこと。本官の聞き及ぶところによれば老齢暗愚なる貴下は従来の滞納金を徴収もせず、村内の秩序に意を用ふることもなく、剰さへいよいよ逆上して醜陋の限りを尽し……※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「はつて面妖な!」と、村長が遮ぎつた。「とんと良く聞えんが!」
 助役は改めて初めから読み直しにかかつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]一つ、村長エヴトゥーフ・マコゴニェンコに対する命令のこと。本官の聞き及ぶところによれば、老齢暗愚なる……※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「うんにや、よろしい! そこは肝腎なところぢやないて!」と、村長が喚き出した。「尤もよくは聞き取れなかつたけれど、まだ、そこは本題ぢやない。先きを読んで下され!」
※[#始め二重括弧、1−2−54]扠、つぎに本官は貴下の子息レヴコー・マコゴニェンコに貴村の哥薩克娘ハンナ・ペトゥルイチェンコワなる者を即刻|妻《めあ》はすべきこと、同時に、国道筋の橋梁を修復し、且つ本官の許可なくしては、たとへ県本金庫より直接出張の役人たりとも、村馬の提供無用のことを申し付く。万一本官到着までに右命令の実行之無き時は、その責一に貴下にありと断ずるものなり。代官、退職中尉コジマ・デルカッチ・ドゥリシュパノーフスキイ※[#終わり二重括弧、1−2−55]
「これはしたり!」と、村長は口あんぐりの体《てい》で言つた。「お聴きの通りぢや、すべて村長に責任ありとさ。さすれば服従せにやならんわい! 絶対に服従せにやならんわい! さもなければ遺憾ながら……。で、貴様にも」と、彼はレヴコーの方へ向きなほつて語をついだ。「代官からの命令とあれば是非もない――尤も、どうしてそんなことが代官の耳に入つたのか、すこし訝《をか》しいけれど――結婚をさせてやることにする。ただ、それに先だつて貴様は鞭の味を味ははにやならんぞ! うちの聖像の下の壁に懸かつてをるやつを知つとるぢやらう? 明日《あした》あれの手入れをしてと……。して貴様、この手紙は何処で受けとつたのぢや?」
 レヴコーはこの思ひもかけぬ局面の転換に茫然としてゐたが、それでもさそくの気転で、どうしてその手紙が手に入つたかといふ有りのままの事実を隠して、別の答へを用意するだけの分別はあつた。
「昨日《きのふ》の夕方ね、」と彼は答へた。「市《まち》へ出かけたんで、すると代官が馬車から降りられるところへ、ひよつくり出つ会したんだよ。あつしがこの村の者だといふことが分つたと見えて、代官がその手紙をあつしにことづけたのさ。それからね、お父《とつ》つあん、あの人は、帰りがけにうちへ寄つて食事をするから、さう言つておけつて言ひましたぜ。」
「しかと代官がさう言はれたのか?」
「ああ、たしかに。」
「お聴きかな?」と、村長は一同のものにむかつて、重々しく勿体ぶつた口調で言つた。「代官が一個人の資格をもつて、われわれ風情のところへ来臨される、即ちわしの家へ昼餐に立ち寄られるのぢや。おお!……(ここで村長は指を高くさしあげると、何か傾聴するやうな風に首を傾げた。)代官が……、お聴きかな? 代官が、わしの家へ食事に立ち寄られるのぢや! どう思はつしやる、助役さん、それからお前さんもさ、――こりやあ、なかなか並大抵の名誉ではないて! な、さうぢやないかな?」
「まだ、これまでつ
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