えてゐる……。※[#始め二重括弧、1−2−54]いつたい、どうしたつていふのだらう?※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思ひながら、もう少し近く忍び寄ると彼は一本の樹の後ろへ身をかくした。まともに月光を浴びてこちらを向いてゐる少女《をとめ》の顔が輝やいて見える……。それはハンナだ! が、彼の方へ背中をむけて立つてゐる、あの背の高い男は何者だらう? 彼はじつと眼を見はつて、ためつすがめつしたが、駄目だつた。その男は頭から足の先まで蔭影《かげ》にかざされてゐるのだ。ただほんのりと前から光りをうけてはゐるが、レヴコーがちよつとでも前へ出ようものなら、いやでも自分の躯《からだ》を明るみへ曝さなければならぬ。彼はそつと樹によりかかつたまま、その場に立ちつくさうと肚をきめた。と、少女《をとめ》の口から明らかに自分の名がもらされた。
「なに、レヴコー? レヴコーなんざ、まだ青二才だあな!」と、嗄がれた低い声で、その背高《のつぽ》の男が言つた。「もしも、おれとお主の前で、彼奴に出つくはすやうなことがあつたら、彼奴の前髪を掴んで引きむしつてくれるわい。」
※[#始め二重括弧、1−2−54]おれの前髪をひきむしるなんて、口はばつたいことをほざきをるなあ、いつたいどんな野郎だか、ひとめ見てやりたいものだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう口の中で呟やきながら、レヴコーは一語も聴きもらすまいと一心になつて頸を伸ばした。しかし、その見知らぬ男は極めて低い小声で話しつづけてゐたので、何ひとつはつきり聴き取ることが出来なかつた。
「まあ、あんた、よくも愧かしくないのねえ!」と、その男の言葉の終るのを待つて、ハンナが言つた。「うそ仰つしやい。あんたはあたしを欺かしてらつしやるんだわ。あんたがあたしを愛してなどいらつしやるもんですか。あたし、あんたに想はれてゐようなんて、夢にも思はなくつてよ!」
「分つとる。」と、背の高い男が言葉をついだ。「レヴコーの奴がいろいろと碌でもないことをお主に吹つこんで、お主の心を迷はせをつたのだらう。(茲でその見知らぬ男の声に若者はどこか聞き覚えがあるやうに思つた。)ようし、あのレヴコーめに、きつと思ひ知らせてやるぞ!」かう、やはり同じやうな調子で見知らぬ男はつづけた。「彼奴は、おれが彼奴のいたづらを、なんにも知らんと思つてうせるのだ。あの碌でなしめが、今におれの拳固の堅さを味はつて見くさるがいい!」
 かうまで言はれては、レヴコーも最早このうへ憤りを抑へてゐることが出来なかつた。二た足三足その男の方へにじりよるなり、渾身の力をこめて、そいつの横つ面に一撃を加へようとして拳しを振りあげた。その拳しにかかつては、如何に頑丈さうに見えてもその見知らぬ男は恐らくひとたまりもなく、立ちどころに打ちのめされたことだらう。ところが、ちやうどその時、月光がさつとこの男の顔を照らした。と、レヴコーはその場に棒立ちに立ちすくんでしまつた――眼の前に立つてゐるのは自分の父親ではないか。思はずかぶりを振つて、喰ひしばつた歯の隙間から微かに呻き声をもらしたのを見ただけでも、その驚愕のほどが察しられた。その時、一方ではさらさらといふ衣ずれの音がして、ハンナが急いで家の中へ身をひるがへすと、ぱたんと扉を閉めてしまつた。
「さやうなら、ハンナ!」この時ひとりの若者が忍び寄りざま、さう叫んで村長に抱きついたが――こはい口髭にぶつかると、胆をひやして後ろへ飛びすさつた。
「さやうなら、別嬪さん!」と、別の一人が叫んだ。しかし今度は村長の手ごはい肘鉄砲を喰らつて、どんでんがへしに、その場へ投げ出された。
「さやうなら、お寐み、ハンナ!」さう、口々に叫びながら、幾人もの若者が村長の頸つたまにぶらさがつた。
「退《ど》きやあがれ、この忌々しいきちがひどもめ!」と、村長は体を振りほどきざま、若者たちに足蹴を喰らはせながら怒鳴つた。「このおれが、汝《うぬ》たちにやあ、ハンナに見えるのかつ! この悪魔の忰どもめが、親爺の跡を追つて絞首台《くびしめだい》へあがる支度でもさらすがええ! 蜜にたかる蠅かなんぞのやうに、うじやうじやと喰らひつきやあがつて! ハンナなんぞ、幾人《いくたり》でも呉れてやるわい!……」
「村長だ! 村長だ! こいつあ村長だぞ!」さう叫び出すなり、若者たちは四方八方へ逃げ散つた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]飛んでもない親爺だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]やつと驚愕から我れに返つたレヴコーは、悪態をつきつき立ち去つてゆく村長の後ろ姿を見送りながら、かう呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]なんといふ巫山戯た真似をする親爺だらう! まつたく呆れたもんだ! なるほど、さういへば、あのことを持ち出すたんびに、奴さんが聞いて聞かぬ振りを
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