》みたいだわ!」さう言ひながらハンナは、暗い楓の茂みと、傷ましげな枝々を水に浸して哀哭してゐるやうな柳の木立にとりかこまれた、陰気な池の面《おも》を指さした。恰かも力萎えた老翁のやうに、その池は己が冷たい懐ろに遠く暗い大空を抱擁して、燦爛たる星々に氷のやうな接吻をそそいでゐる。星々は輝やかしい夜の帝《みかど》の間もなき台臨をはやくも予覚するもののやうに、暖かい夜の大気のなかで仄かに揺曳する。森のかたへの丘のうへには、一棟の古い木造りの館《やかた》が、鎧扉を閉したまままどろんでゐる。苔や雑草がその屋根を蔽ひ、窓さきには林檎の樹々が枝をひろげて生ひ茂り、森はその館を蔭につつんで不気味な凄みをそへ、榛《はしばみ》の茂みが家の土台ぎはから生ひはびこつて、池の汀へとすべり下りてゐる。
「あたし、まるで夢みたいに憶えてゐるのよ。」と、ハンナはその館にじつと眸を凝らしながら言つた。「もう、ずつとずつと以前、まだあたしが小さくて、お母《つか》さんのそばにゐた頃に、あのお家のことで、なんか、それはそれは怖い物語《おはなし》を聞いたことがあつてよ。レヴコー、あなたは屹度そのお話ご存じでしよ。ね、話して頂戴な!」
「そんな話なんか、どうだつていいぢやないか、おれの別嬪さん! 女房《かみさん》連や馬鹿な手合は何を言ふやら分つたものぢやないよ。胸騒ぎがして、怖気づいて、夜もおちおち眠られなくなるのがおちだよ。」
「話してよ、話してよ、ね、可愛い、いなせな黒眉のお兄さんつてば!」彼女はさう言ひながら自分の顔を相手の頬におしつけて、男を抱きしめた。「ぢやあ、きつと、あんたはあたしを好いてゐないんだわ、あんたには屹度ほかに好い娘《こ》があるんだわ。ね、あたし怖がりなんかしなくつてよ。夜もとつくり眠るわ。もし話して下さらなければ、それこそ眠られやしないわ。気になつて気になつて、考へこんぢやふから……。ね、話してよ、レヴコー!……」
「なるほど、娘つこには好奇心をそそのかす鬼がついてるつてえのは、ほんとだ。お聴きよ、ぢやあ――それはずつと昔のことなんだよ。ね、あの館《やかた》にはさる*百人長《ソートニック》が住んでゐたのさ。その百人長《ソートニック》には一人の娘があつたんだよ。綺麗な令嬢《パンノチカ》で、ちやうどお前の顔みたいに、雪のやうな肌の娘だつたのさ。百人長《ソートニック》はもうずつと前に奥さん
前へ
次へ
全37ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング