は、もう村ぢゆうに一人もないのだけれど、その哥薩克外套はちやんと長持の中へしまつて錠がおろしてあるのだ。村長は鰥《やもめ》だが、家には亡妻の妹が同居してゐて、朝夕の煮焚きをしたり、腰掛を洗つたり、家を白く塗つたり、彼の肌着にする糸を紡いだりして、家事のすべてを取りしまつてゐる。村ではこの女がそんな身寄の者ではないやうに言つてゐるが、何しろ村長のことといへば、あらゆる誹謗の種にしたがる悪口屋の多いことだから、なんとも予断の限りではない。だが、さうはいふものの、これにもいくらか理由《わけ》がないでもない、といふのは、村長が草刈女の集まつた野原へ出かけたり、若い娘のある哥薩克の家へ行つたりすると、いつも義妹《いもうと》だといふくだんの女の機嫌が甚だ宜しくないからだ。村長は片目ではあるが、その代り彼の一粒きりの眼が曲者で、器量のいい百姓女なら、どんな遠くからでも見つけてしまふ。それでも、義妹《いもうと》だといふ触れこみの女が、どこぞから覗いてをりはせぬかと、よくよく見きはめてからでないと、決してその独眼を美しい女の顔へは向けない。それはさて、われわれはこの村長について必要なことは残らず物語つたつもりだが、酔つぱらひのカレーニクはまだ道程《みち》の半ばにも達しないで、なほもその呂律のまはらぬ、だらしのない舌でしか口にのぼすことの出来ないやうな択《よ》りぬきの悪態で、くどくどと村長を罵りつづけてゐる。
三 思ひもかけぬ敵手 策謀
「ううん、嫌だよ、おらあ嫌だ! 君たちももうそんな馬鹿騒ぎはいい加減にきりあげたらどうだい? よくもそんな無茶なことに厭きないんだなあ! でなくつたつて、おれたちはいい加減しやうのないやくざ者に見られてるんぢやないか。もう温なしく寝た方がいいよ!」かうレヴコーは、自分を何か新らしい悪戯にさそふがむしやら仲間に向つて答へた。「さやうなら、みんな! お寝み!」そして足ばやに仲間からはなれて、往来をすたすたと歩き出した。
※[#始め二重括弧、1−2−54]あの眼もとの涼しいおれのハンナは、もう寐てゐるかしら?※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう思ひながら、彼は、われわれにはすでに馴染の、くだんの桜の木立にかこまれた茅屋《わらや》へと近づいた。と、ひつそりとした中に低い話声が聞える。レヴコーは立ちどまつた。木の間がくれにルバーシュカが仄白く見
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