おいらはかつきり一年たつたら、この長上衣《スヰートカ》を請け出しに来るだから、それまでちやんとしまつといて呉んろよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]――さう言つておいて掻き消すやうに姿を隠してしまつただ。猶太人がよくよくその長上衣《スヰートカ》を見るてえと、生地はとてもとてもミルゴロド界隈で手に入るやうな代物ではなく、そのまた赤い緋の色がまるで燃えたつやうで、じつと見つめちやあゐられねえくらゐ! ところが猶太人め、期限になるまで待つてをるのが惜しくなつただのう。畜生め鬢髪《ペーシキ》を撫で撫で、さる旅の旦那衆にそれをうまく押しつけて、五*チェルヲーネツはたつぷりせしめやあがつただよ。約束の日限なんぞ、猶奴《ジュウ》の野郎すつかり忘れ果ててしまつてゐただ。ところが、ある日の夕方のこと、一人の男が入えつて来て、※[#始め二重括弧、1−2−54]さあ、猶奴《ジュウ》、おいらの長上衣《スヰートカ》を返してもらはう!※[#終わり二重括弧、1−2−55]つて言ふだよ。猶奴《ジュウ》め最初《はな》はまつたく見憶えがなかつただが、よくよく見ればくだんの男なので、てんから思ひもよらぬといつた顔つきをしやあがつて、※[#始め二重括弧、1−2−54]それあまた、どんな長上衣《スヰートカ》のことですかね? 手前どもには長上衣《スヰートカ》なんてものあ一つもありましねえだ! てんでお前さまの長上衣《スヰートカ》なんて知りましねえだよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、空とぼけて見せをつたものさ。するてえと、男はフイと出て行つてしまつただよ。ところが、やんがて夜になつて、猶奴《ジュウ》のやつが自分の荒《あば》ら家《や》の戸を閉めきつて、長持の中の銭を一とほり勘定し終つてから、上掛けをかぶつて、猶太流に祈祷をはじめをつたと思ひなされ――何か物音がするだよ……ひよいと見ると――窓といふ窓から、豚の鼻づらがうちん中を覗き込んでるでねえか……。」
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
チェルヲーネツ 彼得一世時代に制定された金貨の単位。
[#ここで字下げ終わり]
 この時ほんとに、何かはつきりはしないが、とても豚の啼き声に似た音が聞えた。一座の者ははつと顔いろを変へた……。語り手の面上には冷汗の玉が吹き出した。
「なんだろ?」と、胆をつぶしたチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークが口をはさんだ。
「なんでもねえだよ!……」さう答へながら、教父《クーム》はからだぢゆうをガタガタ顫はせてゐる。
「ええつ!」客の一人がさう口走つた。
「お前さんがいつただんべ?」
「いんにや!」
「いつたい誰が鼻を鳴らしただ?……」
「馬鹿々々しいつたら、何をおれたちやあ大騒ぎしてるだ! ビクつくこたあ、なんにもありやしねえやな!」
 それでも、一同はびくびくして、あたりを見まはしたり、部屋の隅々へ眼をくばつたりしはじめた。ヒーヴリャはまるで生きた心地もなかつた。「まあ、ほんとにお前さんたちは女《あま》つ子《こ》だよ、まるで女つ子だよ!」と、彼女は大声をあげて喚いた。「お前さんたちが男一匹で、哥薩克の働らきが出来ようなんて、とても思ひもよらないよ! お前さんたちにやあ、紡錘《つむ》を持つて糸車のまへに坐るくらゐが分相応だよ! あれあ屹度、何だよ、誰かがお屁《なら》をしたのか……それとも誰かのお尻の下で腰掛が鳴つただけのことさ。それだのに、みんな狂人《きちがひ》みたいに跳びあがるなんて!」
 この言葉にわれらの勇士たちは気恥かしくなつて、強ひて空元気をつけた。そこで教父は水筒から一口あふつて、またもや続きを話しはじめた。「ところで、その猶奴《ジュウ》は気を失つてしまつただよ。だが、豚どもは竹馬みたいにひよろ長い脚で窓を跨いで中へ入えると、いきなり、三本|縒《より》の革鞭を振りあげて、あの横梁《よこぎ》よりも高く猶奴《ジュウ》が跳ねあがつたくれえ、こつぴどく野郎を擲りつけて正気に戻しただ。するてえと、猶奴《ジュウ》のやつめ、這ひつくばつて何もかも白状してしまつただよ……。だが、長上衣《スヰートカ》をさつそく取り返すつてえ訳にやあ行かなかつただ。なんでも道中でその旦那衆からジプシイが長上衣《スヰートカ》を盗んで、それを女商人に売りつけをつただ。そのまた女商人がそれを持つてこのソロチンツイの定期市《ヤールマルカ》へやつて来たちふ訳だが、それ以来、その女商人の商品《しな》がさつぱり捌《は》けなくなつてしまつただよ。だもんで女商人はひどくそれを不思議に思つただが、やがてそれが何もかも、てつきりその赤い長上衣《スヰートカ》のせゐだと気がついただ。成程さういへば、それを著るてえと妙にからだが緊めつけられるやうな気がするだよ。そこで前後の考へもなく、いきなりそれを火のなかへおつ抛りこんだだが、その魔性の着物は燃えもしねえだ!……※[#始め二重括弧、1−2−54]ええ、こりや飛んでもねえ悪魔のお土産だ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]つてんでな、女商人はいろいろと思案にくれた挙句、バタを売りに来てゐた或る百姓の荷馬車へそれをこつそり押しこんだだよ。頓馬な百姓め、ほくほくもので悦に入りをつただが、売りもののバタはからつきし、値踏みひとつする者もねえ始末さ。※[#始め二重括弧、1−2−54]ええ、忌々しい、この長上衣《スヰートカ》は悪魔の手からわたつたものに違えねえ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう言ひざま、斧を取つて、それをばズタズタに截りきざんでしまつただよ。ところがどうだ、その一切れ一切れが寄りあつまつて、またぞろもとのやうに、ちやんとした長上衣《スヰートカ》になるでねえか! そこで今度は十字を切つて、もう一度それを斧で断ちきつて、その切れつぱしを、どこここなしに撒きちらしておいて行つてしまつただよ。その時からこつち、毎年、定期市《ヤールマルカ》の時分になるてえと、きまつて豚の仮面《めん》をかぶつた悪魔めが、広場々々をほつつきまはつて、鼻を鳴らしながら、自分の長上衣《スヰートカ》の切れつぱしを拾ひあつめて歩くつてえだ。なんでも、今ぢやあ、もう左の袖口だけが目つからねえばつかりだつてえこんだ。それからこつち、誰ひとり怖気をふるつて近寄らねえもんで、ここに定期市《ヤールマルカ》が立たねえやうになつてから、かれこれもう十年にもなるべえ。だのに、その悪魔めが、今度はあの委員の野郎を抱きこみやあがつて……」
 かう言ひかけた言葉の半ばが語り手の唇のうへで消えてしまつた――窓が騒々しく打ち叩かれて、硝子が唸りを立ててけし飛んだ。そして物凄い醜面《しこづら》が、そこからにゆつとばかりに中を覗きこんで、まるで※[#始め二重括弧、1−2−54]皆の衆、いつたいここで何をしてゐなさるだね?※[#終わり二重括弧、1−2−55]とでも訊ねるやうに、じろじろと眺めまはした。

      八

[#ここから13字下げ、28字詰め]
……犬のやうに尻尾を巻き、カインのやうにわななきながら、鼻の孔から鼻水《みづ》をたらした。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]――コトゥリャレフスキイ『エニェイーダ』より――

 家のなかにゐた者はみんな恐怖に打たれてしまつた。教父《クーム》は口をぽかんとあけたまま、まるで化石したやうにからだを硬ばらせてしまつた。両の眼は今にも飛び出しさうなくらゐ、かつと見開かれ、指をひろげた両手は宙に浮いたままビクとも動かなかつた。例の長身《のつぽ》の勇士が、驚愕のあまり天井へ跳ねあがつて、横梁《よこぎ》を頭で小突き上げたため、棚板が外れて、ガラガラつと物凄い音を立てざま、祭司の息子が地面《した》へ転げ落ちてきた。
「ひやあつ!」と絶望的にわめいて一人の男は、怖ろしさのあまり腰掛の上へ打つ伏しになつて、両手と両足でそれにしがみついた。
「助けてくれえつ!」さう喚いて他の一人は、頭から外套をひつかぶつた。
 再度の驚愕でやうやく我れに返つた教父は、わなわなと顫へながら女房の裾のしたへ潜《もぐ》りこんだ。長身《のつぽ》の勇士は狭い焚口から無理やりに煖炉《ペチカ》のなかへ這ひこむなり、自分で焚口の扉を閉めてしまつた。チェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークはといふと、まるで熱湯でもぶつかけられたもののやうに、帽子の代りに甕を頭にかぶつて、戸口へ駈け出すなり、狂人《きちがひ》のやうに、ろくろく足もとも見ずに往来をひた走りに走つたが、やうやく疲労のために駈ける足の速力がゆるんで来た。彼の心臓はまるで磨粉場《こなひきば》の臼のやうに激しくうち、汗が玉をなして流れた。疲れはてて、今にも地面へぶつ倒れさうになつた時、ふと彼の耳に、誰か後ろから追つてくるらしい跫音が聞えた……。彼の息の根はとまつてしまつた……。
「悪魔だ! 悪魔だ!」と、彼は気を失ひながらも精いつぱいに叫んだが、一瞬の後には、知覚を失つて地上へぶつ倒れてしまつた。
「悪魔だ! 悪魔だ!」さういふ声が彼の後ろの方でも聞えた。そして彼は何ものかがけたたましく自分に襲ひかかつたやうにだけは感じたが、ここで彼の記憶の糸はとぎれて、窮屈な棺桶のなかの不気味な佳人のやうにおし黙り、そのままビクとも動かずに路の真中にのびてしまつた。

      九

[#ここから15字下げ]
前から見ればともかくも、
後ろ姿は、あれ、鬼だ!
[#ここから22字下げ]
――民話の中より――
[#ここで字下げ終わり]

「なあ、ウラース!」と、往来に寝てゐた連中の一人が、真夜なかに頭をもちあげて言つた。「おいらの近くで誰だか、悪魔だあつて叫んだでねえか!」
「おらになんの関係があるだ?」傍に寝てゐたジプシイが、伸びをしながら呟やいた。「よしんば、洗ひざらひ身うちの者の名を呼んだにしてからがさ!」
「だけんど、なんだか咽喉を緊めつけられるやうな声だつたでねえか!」
「人が寝言に何をいふか知れたもんでねえつてことよ!」
「それあともかく、ちよつと見て来るだけでも見て来てやらにやあ。おめえ一つ火を燧《う》つてくんなよ!」
 片方のジプシイはぶつくさ言ひながら立ちあがつて、二度ばかり稲妻のやうな火花を浴びると、口をとんがらして火口《ほくち》を吹いてゐたが、やがてカガニェーツ――それは陶器のかけらに羊の脂をたたへたもので、小露西亜では普通一般の燈火である――を手にして、道を照らしながら歩き出した。
「ちよつと待つた! ここになんだかうづくまつてるだよ。燈火《あかり》をこつちい見せろよ!」
 この時、また幾人かの連中が彼等に加はつた。
「何がうづくまつてるだよ、ウラース?」
「なんでも人間が二人らしいだが、一人が上に乗つかつて、一人が下になつてるだ。はあてな、どつちが悪魔だか、見当がつかねえだよ!」
「そいで、上に乗つてるなあ、なんだい?」
「女《ばば》あだ!」
「そいぢやあ、そいつがてつきり悪魔だんべや!」
 どつと一時に哄笑が往還に轟ろきわたつた。
「女《ばば》あが人の上に乗つかつてるからにやあ、この女《ばば》あめ、てつきり人を乗りまはす術《て》を知つてるにちげえねえだよ!」と、輪になつてゐた群衆の中の一人が言つた。
「おい、みんな見ろやい!」と、別の一人が甕の破片《われ》を手に取りあげながら言つた。その甕の残りの半分だけがチェレ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ークの頭に被さつてゐるのだつた。「なんちふ帽子《しやつぽ》をこの大将はかぶつてやあがるんだい!」
 騒ぎの音と笑ひ声が大きくなつたため、それまで気を失つてゐたソローピイとその女房は息を吹き返したが、さつきの驚愕からまだ醒めきらぬ二人は、長いあひだ、きよとんとした眼でおどおどと、浅黒いジプシイたちの顔を見つめてゐた。ほの暗く、顫へながら燃える灯火《あかり》に照らし出されたジプシイたちの顔は、夜ふけの闇のなかに、さながら陰惨な地底の水蒸気につつまれた奇怪な魑魅魍魎のつどひかとも思はれるのであつた。

      十

[#ここから15字下げ]
桑原々々!
悪魔のそそのかし
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング