あしどりのせゐでもない。さうした敬意の払はれる理由が知りたければ、眼を少し上へあげさへすればよい。荷車の上には丸顔の美しい娘がひとり坐つてゐた。黒いなだらかな三日月眉は澄みきつた栗色の眼の上にもたげられ、薔薇いろの唇には屈託のない微笑が浮かび、頭べにまとはれた赤や青のリボンは、長い編髪《くみがみ》や野花の小束と共に、彼女の蠱惑的な頭べの上に、華やかな王冠のやうに落ちついてゐた。何もかもが彼女の心を惹きつけるらしく、あらゆるものが彼女には珍らしく、目あたらしさうで……その美しい二つの眸は絶え間なく、次ぎから次ぎへと馳せうつつた。どうしてまた夢中にならずにゐられよう! 初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに! 十八娘の生まれて初めての定期市《ヤールマルカ》ゆきなのに!……しかし、彼女がどんなに父親にせがんで同行を納得させたかは、行き交ふ人々のうち誰ひとり知つてゐる者がない。もつとも父親は、根性まがりの継母さへゐなかつたら、二つ返辞で聴き入れたことだらうが、彼はまるで、永年のあひだこき使はれた挙句のはてに、お払ひ箱になるために、現に曳かれてゆく耄碌馬《まうろくうま》の手綱を自分が掴んでゐると同様に、すつかりその後添の女房の手で尻尾を押へられてしまつてゐたのだ。そのやかましやの女房《かみさん》といふのは……。しかしわれわれはその女房《かみさん》が現在この荷馬車のてつぺんに乗つかつてゐることをつい胴忘れしてゐた。その女房《かみさん》は、ちやうど、貂の毛皮のやうに、色こそ赤いが、一面に植毛の施こされた、しやれた青い毛織の短衣《コフタ》の下に、将棋盤みたいな市松模様の、立派な毛織下着《プラフタ》を着こみ、更紗模様の頭巾帽《アチーポック》をかぶつてゐる。それが彼女のでつぷりした赤ら顔に一種独特のいかつさを添へて、何かかうひどく不気味で異様な風貌に見えたので、誰しも愕ろきの眼を、急いで陽気な娘の顔へと移さずにはゐられなかつた。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
寛袴《シャロワールイ》 土耳古風の寛闊なズボンで、我が国の山袴、かるさんに類するもの。
[#ここで字下げ終わり]
この一行の行手には早くも*プショール河が見えだして、まだ遠くから、清涼な河風がもう頬を撫でて、それが堪へがたい酷暑の後でひとしほと身に浸みるやうであつた。無造作にばら撒かれたやうに、草地の上に突つ立つ
前へ
次へ
全36ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング