ディカーニカ近郷夜話 後篇
VECHERA NA HUTORE BLIZ DIKANIKI
イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・シュポーニカとその叔母
IVAN FEODOROVITCH SHUPONIKA I EWO TYOTUSHKA
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogoli
平井肇訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)物語《はなし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|露里《ウェルスト》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]

*:訳注記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)わざわざ*忘れな結びをしておいた
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 これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・クーロチカに聞いた物語《はなし》ぢやが、これには一つの故事来歴がついてゐる。ところで、元来このわしの記憶といふやつが、何ともはやお話にならぬ代物で、聞いたも聞かぬもとんとひとつでな。いはば、まるで篩《ふるひ》の中へ水をつぎこんだのと変りがないのぢや。我れながら、それを百も承知なので、わざわざ彼にその物語《はなし》を帳面へ書きつけておいて呉れるやうに頼んだ次第ぢや。――いや、どうか達者でゐて貰ひたいもので――あの先生わしには何時もじつに親切な男でな、筆をとるなり、さつそく書いておいて呉れたわい。わしはその帳面を小卓《こづくゑ》の押匣へしまつておいたのぢや。そら、諸君も御存じぢやらう、あの、戸口を入つた直ぐとつつきの隅にある小卓《こづくゑ》なんで……。いやはや、これはしたり、すつかり忘れてをつたが――諸君はまだ一度もわしの家へ来られたことがなかつたのぢやな。ところで、わしがもう三十年このかた連れ添ふうちの婆さんぢやが、恥をいへば目に一丁字もない女なんで。この婆さんがある時、何かの紙を下敷にして肉饅頭《ピロシュキ》を焼いてござるのぢや。時に親愛なる読者諸君、うちの婆さんときたら、その肉饅頭《ピロシュキ》を焼くのがめつぱふ上手なのぢや、あれくらゐ美味《うま》い肉饅頭《ピロシュキ》はどこへ行つても食へつこない。それはさて、何気なくその肉饅頭《ピロシュキ》の下敷にしてある紙を見ると――なにか文字が書いてある。へんに思ひあたる節があるので、小卓《こづくゑ》のところへ行つてしらべて見ると、どうぢやらう――くだんの帳面が半分くらゐの丁数になつてをるではないか! あとは残らず婆さんめ、肉饅頭《ピロシュキ》を焼くたんびに、引きちぎつては使つてしまひをつたのぢや! だが、どうしやうがあらう、まさかこの老齢《とし》で、掴みあひができるではなしさ! 去年のことぢやが、たまたまガデャーチをとほつたので、まだその市《まち》へさしかかる前に、この一件についてステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチをたづねることを忘れまいとて、わざわざ*忘れな結びをしておいたほどぢや。それだけならまだしも、市《まち》なかでくしやみが出たら、それをしほに必らずあの仁のことを想ひ出さうと、しかと我れと我が胸に約束しておいたのぢやが、それもこれも無駄ぢやつた。市をとほりながら、くしやみもしたし、ハンカチで鼻汁《はな》もかんだけれど肝腎のことはすつかり忘れてしまつてゐたのぢや。で、やつと気がついた頃は、市の関門を六|露里《ウェルスト》ばかりも距たつてゐた。どうもしかたがない。尻切蜻蛉のままで印刷にまはすことになつてしまつた。だが、この物語のさきがどうなるか、是非とも知りたいとお望みの方には、ひとつガデャーチへ出むいて、ステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチに訊ねていただくまでのことぢや。あの仁は大悦びでこの物語を、恐らくは初めからしまひまで、お話しすることぢやらう。住ひは石造の教会堂のつい近所でな。あすこのとつつきに小さい横町があるが、その横町へ曲るとすぐ、二つめか三つめの門がそれぢや。あ、さうさう、それよりもよい目標《めじるし》は、庭に太い棒が立つてゐて、それに鶉がかけてあり、草いろの女袴《スカート》を穿いた、ふとつちよの女が出迎へる(ステパン・イワーノ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが独り者だといふことを御承知おき願ふのも妨げにはなるまい)と、それが彼の邸なのぢや。それとも市場で先生をつかまへることも出来る。奴さんはそこへ毎朝、九時までには必らず出かけて、自分の食膳を賑はす魚菜をみたてたり、アンティープ神父や、それから請負商の猶太人などと話し込んでゐるのが平素《いつも》のならはしなんでな。それにあんな派手な花模様のズボンを穿いたり、鬱金《うこん》の南京繻子で出来たフロックコートを著てゐる人間は、あの男のほかには一人もゐないから、すぐに見分けがつく。もう一つの目標《めじるし》は、歩く時にきまつて両腕をぐるぐる振りまはす癖のあることぢや。今は亡き彼地《あちら》の陪審官デニス・ペトロー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、遠くから彼の姿を見かけると、※[#始め二重括弧、1−2−54]御覧なさい、御覧なさい、そら、あすこへ製粉場《こなひきば》の風車が歩いて来ますぜ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、きまつてさう言つたものぢや。
[#ここから4字下げ、折り返して5字下げ]
忘れな結び 用事を忘れず思ひ出すよすがに、ハンカチに結びこぶを作ること。
[#ここで字下げ終わり]

    一 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・シュポーニカ

 イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・シュポーニカは、もう四年まへから軍職を退いて、所有農園《もちむら》のウイトゥレベニキに住んでゐる。彼がまだワニューシャと呼ばれた少年時代には、ガデャーチの郡立小学校へかよつてゐたが、特筆すべきことは、彼がきはめて品行方正な、ぬきんでて勤勉な児童だつたことで、露西亜文法の教師ニキーフォル・ティモフェー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・デェプリチャースティエは、いつも、受持児童が残らずシュポーニカのやうな勤勉家ばかりだつたら、自分は楓樹《かへで》の定規などを教室へ持つて来るには及ばぬのだがと、言ひ言ひしたものだ。いつも彼は、彼自身が告白したとほり、怠け者や悪戯つ児の手をその定規で打ち草臥《くたび》れてしまふ有様だつた。シュポーニカの筆記帳はいつもきれいで、いつぱいに罫がひいてあつて、どこを開いて見ても斑点《しみ》一つついてゐなかつた。彼はいつでもおとなしく席につくと、手を拱んで、じつと教師に目をそそぎ、決して、自分の前の席に坐つてゐる級友の背中へ紙片《かみきれ》をぶら下げるとか、腰掛に彫刻をするとか、それから、先生が来るまで目白押しをやるといふやうなことがなかつた。もし誰かが鵞筆《ペン》を削るのにナイフの要るやうな場合には、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが何時もナイフを用意してゐることがわかつてゐたので、取敢へず彼に借用を申し込んだものだ。するとイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは――いやそのころは単にワニューシャだつたが、――鼠色の制服の釦孔《ぼたんあな》にさげてゐた小さい革袋《ケース》からナイフを取り出して、但しペンを削るのにナイフの刄尖《はさき》をつかはないで欲しい、それにはちやんと、適当な刄の鈍い個所があるからと、断るのだつた。かうした美点は、あの粗羅紗の外套と痘瘡《あばた》だらけの顔を入口へにゆつと現はす前に昇降口でやる咳払ひ一つで、全教室を恐怖のどん底におとし入れる、拉典語の教師の注意をすら、忽ち彼の上へ牽きつけずにはおかなかつた。いつも教壇に二振りの枝笞を用意して、生徒の半数に膝立《ひざだち》の罰を喰はせる、この怖ろしい教師が、クラスのうちには遥かに良く出来る連中が沢山あつたにも拘らず、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチを指導委員《アウディートル》に任命した。さて、茲に彼の全生涯に影響を及ぼすに至つた一大事件の出来したことを見逃しにする訳にはゆかぬ。彼の指導に委ねられた生徒の一人が、或る学課がまるで出来なかつた時に、指導委員《アウディートル》を買収して採点簿に甲を入れさせようと思つて、バタを塗つた揚煎餅《ブリーン》を紙にくるんで教室へ持つて来たのだ。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは公明な心の持主だつたが、をり悪しくその時はひどく空腹だつたため、この誘惑に打ち克つことが出来なかつた。彼は揚煎餅《ブリーン》を受け取ると、本を前に立てかけておいてムシャムシャやり出したが、ひどくそれに夢中になつてゐたものだから、不意に教室の中がまるで死んだやうにしいんと鎮まり返つたことにも気がつかなかつた。彼がハッと我れに返つた時には、すでに粗羅紗の外套の袖口からぬつと出た怖ろしい手が彼の耳を掴んで、教室の真中へ引きずり出してゐた。『揚煎餅《ブリーン》をこちらへお出し! お出しと言つたら、この碌でなしめ!』さう言ふなり、怖ろしい教師はバタつきの揚煎餅《ブリーン》を指で摘んで、窓から外へ投げ棄てた。そして運動場を駈け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐる児童たちに向つて、それを拾つちやならんぞと厳しく禁じておいてから、すぐにその場でイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの両手をいやといふほど鞭打つた。――いかさま揚煎餅《ブリーン》を受け取つたのはその手で、からだの他の部分には罪がないとでもいふのだらう。それは兎も角、このことがあつて以来、それでなくても生まれつき小胆な彼に、なほさら臆病風が染みこんでしまつたのだ。恐らくこの事件そのものが因を成して、後年、彼をして絶対に役所勤めに入らうといふ望みを起させなかつたものに違ひない――この経験から、誤魔化といふことの難かしさをつくづく悟つたがために。
 彼が二学年に進級して、それまでの簡易釈義書や四則算の代りに、詳細釈義書だの、修身だの分数だのを習ひかかつた時には、年ももう満十五歳になつてゐた。だが、深く進めば進むほどいよいよ学課は煩瑣になるばかりだつたし、ちやうど、父の訃報にも接したりしたので、それからあと二年のあひだ在学してから、母の諒解を得て、P××歩兵聯隊へ入隊した。
 このP××歩兵聯隊は、他の多くの歩兵聯隊が属してゐる類ひとは全く趣きを異にして、たいてい村落に駐屯してゐたにも拘らず、へたな騎兵聯隊などの及びもつかぬくらゐ、素晴らしく景気のいい聯隊であつた。大部分の士官が竜騎兵にも負けず凍火酒《ウィモロズキ》をあふり、猶太人の鬢髪《ペイス》を掴んでは引きずり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。中にはマヅルカを踊る者さへあつて、P××歩兵聯隊の聯隊長は社交の席で人と談話を交はすやうな場合には、いつも口癖のやうに、それを吹聴することを忘れなかつた。『自分の聯隊には、』と、彼はいつでも一言いつては腹を撫でながら、語るのだつた。『マヅルカを踊る者が沢山をりますぢや、いや実に沢山をりますぢや、非常に沢山!』このP××歩兵聯隊の発展ぶりを更によく読者に示すため、士官のうちに、途方もない賭博者《ばくちうち》で、軍服や軍帽から外套はおろか、下緒《さげを》から、まだその上に、どんな騎兵連の間を捜し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つても到底見つかりさうにない下著の端に至るまで、すつかり賭けてしまふといつた、恐ろしい豪傑が二人もゐたことを、つけ加へておく。
 かうした同僚にとりまかれてをりながら、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの臆病さ加減には少しも変りがなかつた。彼は凍火酒《ウィモロ
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