ないのですよ、もうこの年齢《とし》でございますから! 宅の蕎麦は以前は帯の辺までもございましたものですが、今時のことはどうですか、分つたものではありませんよ。尤も何によらず当節は良くなつた良くなつたと申してをるやうでございますけれど。」ここで老婆は溜息を一つついたが、誰か第三者がそこに居合はせたなら、この溜息の中に古い十八世紀の吐息を感得したことだらう。
「お宅様の女中さん方はまた、大層上手に段通をお織りだといふお話を承はつてをりますが。」と、ワシリーサ・カシュパーロヴナが言つた。それが老婆の最も感じ易い神経を刺戟して、この言葉に依つて、まるで蘇つたやうに元気づいた彼女は、単糸《ひとへいと》の染色から、撚糸《よりいと》の準備に至るまで、こと細かに物語つた。
談話は忽ち段通のことから胡瓜漬や乾梨のことに移つた。一言にしていへば、一時間と経たぬ間に、この二人の老婦人は、百年も前から懇意な仲であつたかの如く、盛んに話し込んでゐたのである。やがてワシリーサ・カシュパーロヴナは妙にひそひそと、小声でばかり話し出したので、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは何ひとこと聞き取ることが出来なかつた。
「それでは一つお目にかけませうかな?」さう言つて、老主婦は立ちあがつた。
それに次いで令嬢たちとワシリーサ・カシュパーロヴナが座を立つた。そして一同は女中部屋をさしてぞろぞろと歩き出した。だが、叔母さんはイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチに、後に残るやうにと目くばせをして、老婆に何やら小声で囁やいた。
すると老婆は金髪の令嬢の方を振り返つて、かう言つた。
「マーシェンカ! お前はお客さまと御一緒に此処に待つておいで、そしてお退屈だらうから何かお話のお相手でもしていらつしやい!」
金髪の令嬢は客間に残つて、長椅子に坐つた。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、さながら針の蓆に坐る思ひで椅子に就くと、まつ赤になつて眼を伏せた。しかし令嬢は、まるでそんなことは気にも止めないもののやうに、すました顔をして、長椅子に腰かけたまま、しきりに窓や壁を眺めたり、椅子の下をコソコソ駈け抜ける仔猫を見やつたりしてゐた。
イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはやや勇気を取り戻して、何か話しかけようと思つたけれど、まるでこちらへ来る途中、すつかり言葉といふものを落つことして来でもしたやうに、彼の頭には何一つ、話題を思ひつくことが出来なかつた。
沈黙が十五分くらゐも続いた。令嬢は依然として坐つてゐる。
やつとのことに、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは勇を鼓して、半ば顫へ声で口を切つた。
「夏はどうも、たいへん蠅が多いですねえ、お嬢さん!」
「ほんとに大変なんですわ!」と、令嬢が答へた。「兄がわざわざ、母の古靴で蠅叩きを拵らへましたのですけれど、やつぱり、まだとても大変ですわ。」
これで会話は再び杜絶えてしまつて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチには最早それ以上、どうにも言葉のいとぐちを見つけることが出来なかつた。
その中に老主婦が、叔母さんや栗色髪《ブリュネット》の令嬢と一緒に戻つて来てしまつた。それから、また暫らくおしやべりをしてから、ワシリーサ・カシュパーロヴナは、是非泊つて行つて貰ひ度いとみんなから引き止められたけれど、老主婦や令嬢たちに暇を告げた。老主婦や令嬢たちは玄関まで客を見送つて、馬車の中から顔をのぞけてゐる叔母さんとイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチとに何時までも会釈を送つた。
「さあ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お前さんは、あのお嬢さんと二人きりで、どんなことをお話しだつたえ!」と、叔母さんが途々たづねた。
「たいへん気立ての優しい、上品な娘さんですねえ、あのマリヤ・グリゴーリエヴナは!」とイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが答へた。
「時にイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、妾お前さんに真面目に話したいことがあるのだよ。お前さんもお蔭でもう三十八にもおなりだし、官等も決して恥かしくはないのだから、そろそろ子供のことを考へなきやなりません! 何は措いてもお嫁を迎へることにしないでは……。」
「何ですつて、叔母さん!」と、びつくりしてイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが叫んだ。「ヨ、嫁ですつて! 以つての外です。叔母さん、ほんとに後生です……。あなたはまつたくこの僕に恥をかかせなさるんです……。僕はこれまで、まだ一度も、妻を持つたことはないんです……。妻なんて、いつたいどうするものだか、まるきり知らないんです!」
「ぢきお分りだよ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、お分りだとも。」と、叔母さんは笑ひながら言つた。そして心の内で、※[#始め二重括弧、1−2−54]しやうのない! まるでねんねえで、何にも知りやあしないのだよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と呟やいた。それから声に出して彼女はつづけた。「でね、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ! お前さんには、あのマリヤ・グリゴーリエヴナがほんとに似合ひだよ、あれ以上の嫁を探さうたつて、見つかるこつちやありません。それにお前さんにはあの娘《こ》が大変に気に入つておいでだし。妾はもうそのことで、いろいろあのお婆さんと談し合つたんだよ。あのお婆さんも、お前さんを娘の婿にすることを、ひどく嬉しがつてるのだよ。しかし、あのグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが何と言ふか、それは分らないけれど、あの人のことは考へないことにしよう。ただ万一にも持参金を呉れないやうだつたら、その時こそ訴訟を起して彼奴《あいつ》を……。」
ちやうどその時、馬車は邸に近づき、年老いた痩馬は、己が厩の間近くなつたことを感づいて、急に活気づいた。
「いいかえ、オメーリコ! 馬には先づ、よく息を入れさせるんだよ。軛をはづして直ぐに水を飲ましちやいけないよ、癇が立つてをるから。それでさ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ」と、馬車を降りながら言葉をつづけた。「妾はお前さんに、ようく、このことを考へておいて貰ひ度いのですよ。妾はまだちよつと台所を覗いて来なきやなりません。ソローハに夕食を言ひつけることを忘れてゐたが、あのぼんやりが独りで気を利かせるやうなことは、ほつても無いからね。」
しかし、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはまるで雷にでも撃たれたやうに立ち竦んでしまつた。なるほどマリヤ・グリゴーリエヴナは大変いい娘だ、しかし結婚!……それは彼には実に奇妙なことに思はれて、考へただけでもぞつとした。妻との同棲! さつぱり分らない! 自分の部屋に独りで落つくといふことも出来ず、年がら年ぢゆう、妻と鼻を突き合はせてゐなければならないなんて!……彼は考へれば考へるほど、その顔に、脂汗がにじみ出して来るのであつた。
いつもより早目に彼は寝床へ入つたが、どんなに眠らうとしても、寐つくことが出来なかつた。しかし、やがてのことに、待ちに待つた、あの万人に共通な慰藉である睡魔が彼を訪れた。だが何といふ奇妙な夢を見たことだらう! 彼は未だかつてこれほど辻褄の合はぬ夢を見たことがなかつた。見ると、ぐるりがガヤガヤとざはめき、グルグル※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてをり、彼自身は力かぎり根かぎり一散に駈けてゐるのだ……。ところが、もうどうにも根がつづかなくなつてしまふ。と、突然、誰かが彼の耳をつかまへる。※[#始め二重括弧、1−2−54]おい、誰だ?※[#終わり二重括弧、1−2−55]――※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしよ、あなたの妻よ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さういふ声がざはめきの中から彼に答へた。そして不意に彼は夢から覚めた。と、今度はもう彼は妻帯してゐるのだが、彼等の家の中は実に奇妙なのだ。彼の部屋には一人用の寝台ではなく二人用の寝台があつて、椅子には妻がかけてゐる。彼には実に変てこで、どうして妻の傍へ行つたものか、何といつて彼女に話しかけたものか、さつぱり分らない。よく見ると、妻の顔が鵞鳥の顔をしてゐる。傍らを見ると、もう一人の妻がゐて、やつぱり鵞鳥の顔をしてゐる。また反対側を見ると、そこにも妻が立つてゐる。うしろを向くと、そこにも妻が一人ゐる。そこで彼はすつかりおびえあがつてしまひ、一目散に庭へ駈け出した。ところが、庭は蒸暑いので帽子を脱ぐと、帽子の中にも妻が一人坐つてゐる。汗がタラタラと顔を流れる。ハンカチを取り出さうとしてポケットへ手を突つ込むと、そのポケットの中にも妻がゐる。耳に詰めてあつた綿を取ると、そこにも妻が坐つてゐる……。そこで不意に、彼は片足でピョンとはねあがつた。すると、叔母さんが彼を見ながら、真面目くさつた顔つきで、※[#始め二重括弧、1−2−54]さうさう、はねあがらなきや駄目だよ。今ぢや、お前さんはもう女房持ちだから。※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ。彼が傍へ近寄つて見ると、叔母さんだと思つたのが、もう叔母さんではなく、鐘楼になつてゐる。そして気がつくと、誰かが彼を綱でその鐘楼へ釣りあげようとしてゐる。※[#始め二重括弧、1−2−54]誰だ、俺を釣りあげようとしてるのは?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが情けない声で訴へた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしよ、あなたの妻よ、あなたは釣鐘だから、釣りあげるのよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]――※[#始め二重括弧、1−2−54]違ふよ、俺は釣鐘ぢやないよ、俺はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチだよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼が叫んだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、君は釣鐘だよ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、P××歩兵聯隊の聯隊長が、傍をとほりながら言つた。すると今度は不意に、妻といふものが全く人間ではなく、一種の毛織物になつてゐるのだ。彼はマギリョーフ市の或る商店へやつて行く。すると、※[#始め二重括弧、1−2−54]どういふ布地《きれぢ》が御入用でございますか?※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、商人が訊ねるのだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]妻をお持ちなさいませ、近頃、これが最新流行の織物でございますよ! 素晴らしく上等の布地《きれぢ》でございまして、皆さまがこれでフロックコートをお拵らへになりますので。※[#終わり二重括弧、1−2−55]商人が尺を計つて、妻を断つ。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはそれを、小腋に抱へて猶太人の裁縫師の店へ行く。※[#始め二重括弧、1−2−54]これあ駄目です。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、猶太人が言ふのだ。※[#始め二重括弧、1−2−54]これはくだらない布地《きれぢ》ですよ! こんな品でフロックなど拵らへる者はありませんよ……。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
恐怖のあまり、正気を失つたやうになつて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは夢から醒めた。冷汗がタラタラと流れた。
朝になつて起きあがるなり、彼は占ひ本を開けて見た。その巻末には、珍らしく行き届いた書肆《ほんや》の親切で、簡単な夢占ひが附録につけてあつた。しかしその中にも、いつかう、さうした辻褄の合はぬ夢に該当するものは見当らなかつた。
それはさて、一方、叔母さんの頭の中には、全く新規な計画が成熟しつつあつた。それは次ぎの章を見てのお楽しみ。
[#地から2
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