、まだまだ若い小僧つ子だもの!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼女はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがもう四十の声をきくのに間もない歳であつたにも拘らず、いつも、かう言ひ言ひした――※[#始め二重括弧、1−2−54]何ひとつ、あれにわかつてゐるものか!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
だが、彼はいつも欠かさず、麦刈の人夫について野良へも出た。それがまた、彼の温良な魂に何ともいへぬ歓びを与へた。十挺から、それ以上もの、ピカピカ光る大鎌の一致した動き、整然と列になつて倒れる草の音、或は友に逢へるが如く喜ばしげに、或は別離の如く悲しげに、相間々々に歌ひ出される刈手の唄、静かな明朗な夕べ――それがまた、何といふ夕べだらう! 何と奔放で、すがすがしい大気だらう! その時、万象《ものみな》がよみがへる。曠野は赤みを帯び、青みを帯び、様々の色に照り映える。鶉や、鴇《のがん》や、鴎や、さては、螽※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]《きりぎりす》など無数の虫どもが、とりどりの声をあげて鳴き出し、はからずも渾然たる合奏をなして、何れもが束の間も休まうとしない。陽は落ちて地平の彼方に隠れる。おお! その爽やかさ、快よさ! 野良には、此処かしこに焚火の火が燃え、鍋がかけられて、それをとりかこんで髭もじやの刈手どもが坐つてゐる。水団《すゐとん》の湯気が漂ふ。たそがれの色は灰いろを帯びて来る……。さうした折、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが、どんな好い気持になつたかは、口では言ひ表はすことも難かしいくらゐだ。彼は刈手たちの仲間いりをして大好物の水団を賞味するのも忘れて、じつとひとつ処に立ちつくしたまま、空の彼方に消えゆく鴎を見おくつたり、野良につらなる、刈り取られた麦の堆積《やま》を数へたりしてゐるのであつた。
程なく、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、到るところで偉い旦那だと取り沙汰されるやうになつた。叔母さんは自分の甥が自慢で自慢で堪らず、何かといへば彼のことを吹聴せずにはゐなかつた。或る日――それは、もう収穫《とりいれ》の終りころで、たしか七月の末のことだつた――ワシリーサ・カシュパーロヴナは、さもおほぎやうな顔つきで、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの手を執りながら、もう永いあひだ気がかりになつてゐた或る用件について、今、相談がしたいと言つた。
「な、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ、」さう彼女はきり出した。「知つてのとほり、お前さんの農園《むら》は十八人の農奴だけれど、それは人口調査の上のことで、実際はもつとずつと多くなつて、多分、二十四人には殖えてゐる筈だよ。でもそのことではありません。お前さん、あの、うちの耕地の彼方《むかふ》にある森を知つておいでだらう。そしてその森のむかふの、広い草地もおほかたは知つておいでだらう。あの草地は二十町歩足らずだが、草を毎年、百|留《ルーブリ》以上には売ることが出来るのだよ。噂のやうに騎兵聯隊がガデャーチに置かれることにでもなれば、もつともつとにもなるだらうよ。」
「ええ、それあ知つてゐますとも、叔母さん、とても素晴らしい、好い草ですよ。」
「その、草がとても好いつてことは妾だつて知つてゐますよ。でもお前さん、あの地所がみんな、事実上お前さんのものだつてことは御存じかえ? 何だつてそんなに眼を丸くしたりなどするのです? まあ、お聴き、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ! お前さんはあの、ステパン・クジミッチを憶えておいでかえ? まあ、妾としたことが、憶えておいでかもないもんだ! お前さんはまだ、その頃は、あの人の名前もよう言はんくらゐ小さかつたんだもの。どうして憶えてなどゐるものか! さうさう、*降世斎節《フィリッポフキ》にはいる前の精進落に、妾がこちらへ来て、お前さんを抱きあげた時だつたよ、お前さんといつたら、すんでのことに妾の一帳羅を台なしにしてしまふ処だつたよ。でも好い塩梅にお前さんのお母さんのマトリョーナが抱き取つて呉れたので助かつたけれど。そんな、お前さんは穢ならしい赤ん坊だつたのさ!……だが、そんなことはどうでも好い。で、うちの村の地続きの土地はみんなあのホルトゥイシチェ村とひとくるめに、あのステパン・クジミッチの持物だつたんだよ。ところでお前さんに話さねばならないことは、そのステパン・クジミッチが、まだお前さんの生まれない前から、お前さんのお母さんのとこへちよくちよく通つたもので――尤もお前さんのお父さんの留守の時に限つてだよ。でも妾はそのことで彼女《あのひと》を咎めだてする気は更々ありません、――どうか後生安楽に成仏して貰ひ度いもんだ――彼女《あのひと》は始終、この妾に不実な仕打ばかりしたものだけれど、しかし、そんなことはどうだつていいが、兎も角、あのステパン・クジミッチが、今も妾がお前さんに話した、あの地所をお前さんに譲るといふ遺言をしたんだよ。ところが亡くなつたお前さんのお母さんといふ女《ひと》は、まあ此処だけの話だけれど、とても変人でね。悪魔に(神様、どうぞこの穢らはしい言葉をお赦し下さい!)だつて彼女《あのひと》の気心は分りやしない。どこへ、一体、その証文を隠してしまつたものか――それは神様より他には、誰にも分りつこないのさ。だが、これはてつきりあのグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ・ストルチェンコといふ、独身の古狸の手に握り潰されてゐるのに違ひないと、妾は睨んでゐます。あの太鼓腹の曲者が、遺産をすつかり横領してしまつたのだよ。あの男がその証文を隠してゐなかつたら、何だつて賭けますよ。」
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降世斎節《フィリッポフキ》 降誕祭前の精進期、十一月十五日より十二月二十五日(旧露暦)まで。
[#ここで字下げ終わり]
「叔母さん、それは僕が宿場で知合ひになつた、あのストルチェンコぢやありませんか?」さう言つて、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、自分の遭遇した一部始終を物語つた。
「それあ、あの人のことはよくは知らないよ!」と、少し考へてから叔母さんが答へた。「ひよつとしたら、そんなに悪い人間ではないのかもしれん。実際、あの人がこちらへ引移つて来てから、まだ半年にしかならないのだから、そんな僅かの間《ひま》に人柄を知るつてことは出来るものぢやないからね。何でも、あの人のお袋さんだといふお婆さんは、大層賢い女《ひと》だつてことだよ。人の話では胡瓜漬の名人ださうだ。それに、あすこのうちの女中は大変上手に段通を織るつてことだよ。で、お前さんの言ふやうに、あの人がそんなにちやほやするんだつたら、ひとつ出かけてみて御覧よ。ひよつとしたら古い罪人《とがにん》も良心に立ち返つて、もともと自分のでもない物は返してよこすかもしれないから。多分、半蓋馬車《ブリーチカ》に乗つて行けるだらうが、忌々しいことに腕白どもが後から後から釘を抜き取つてしまつたから、オメーリコにさう言つて、よく革を打ちつけさせんことには。」
「なあに、叔母さん。僕は叔母さんが鳥を射ちに行くとき乗つておいでになる、あの馬車で行きますよ。」
かういふことで、この話には鳧がついた。
四 午餐
イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがホルトゥイシチェ村へ乗り込んだのは、ちやうど午餐時《ひるめしどき》であつたが、地主の邸が間近になると彼は少しおぢけづいて来た。その家は間口が馬鹿に広くて、近所界隈の地主の家のやうに茅葺ではなく、板葺屋根であつた。邸内にある二棟の倉庫も同様に板葺で、門は樫材で出来てゐた。イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、ちやうど、舞踏会に乗りつけた洒落者が、どちらを見ても自分より優れた服装をした客ばかりなのに、聊か面喰《めんくら》つたといつた形だつた。彼は敬意を表して倉の脇で馬車を停めると、そこからは歩いて玄関にかかつた。
「あつ、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチだ!」と、庭を歩いてゐたグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが喚き出した。彼はフロックを著てゐたが、ネクタイもチョツキもズボン釣りもつけてゐなかつた。それでも彼の肥つたからだには余程その服装がこたへるらしく、顔からは汗が玉をなして流れてゐた。
「どうなすつたんです。あなたは叔母さんに一と目会つておいてすぐ様こちらへいらして下さるといふお約束でしたのに、どうして今日までおいでにならなかつたんです?」かうした言葉に次いでイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの唇は、例のお馴染の座褥《クッション》に出会つた。
「どうも家事に追はれ勝ちでして……。今日はほんのちよつとお邪魔に上りました、実は少しその……。」
「ほんのちよつとですつて? そんなことは言はせませんよ。おい小僧つ!」さう肥つた主人が呶鳴ると、哥薩克風の長上衣をきた、いつかの少年が台所から駈け出して来た。「早くカシヤンにさう言つて門を閉めさせてしまへ――分つたか! しつかり閉め切つてしまへつて! そして早速この旦那の馬を軛《くびき》から外すんだ。さあ、どうか中へお入り下さい、此処ではとても暑くて、私の襯衣はもう、ぐつしよりなんです。」
イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは部屋へ通ると、もちまへの小胆にも拘らず、無駄に時間をつひやすことなく、てきぱき事を運ばうと、肚を決めた。
「叔母がその……私に申しますには、何でも亡くなられたステパン・クジミッチの御遺言書とかが、その……。」
この言葉にグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチのだだつ広い顔がどんな不愉快な表情を現はしたかは、ちよつと形容に困るくらゐである。
「いや、とんと仰つしやることがよく聴えませんよ!」と、彼は答へた。「お断わりしておかなければなりませんが、私の左の耳へあぶら虫が這入りましてね、(あの碌でなしの大露西亜の髯もぢや先生たちと来たら、もう、家ん中ぢゆう、あぶら虫でうじやうじやさせてをりますからね)その気持の悪さ加減といつたら、とても筆紙に尽すことは出来ません。いやどうも、擽つたくつて擽つたくつて。しかし、さる老婆がごく簡単な方法で癒してくれましたよ……。」
「私がお話をいたしたいと思ひますのは……」と、イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチはグリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチがわざと余所事に言ひ紛らさうとするのを見て、思ひ切つてそれを遮ぎつた。「ステパン・クジミッチの遺言の中に、その何です、贈与契約書とかがあつて……それが、この私に……。」
「いや分りました、叔母さんがあなたにそれを吹き込まれたのですね。それはまつたく根も葉もないことです! 伯父はどんな贈与契約もしませんでしたよ。尤も遺言の中に何かの証文のことは書いてありましたが、いつたいそれは何処にあるのです? 誰ひとりそれを提出しなかつたのです。かう申し上げるのも、真実あなたのお為めを思ふからですよ。誓つてそれは、根も葉もないことです!」
イワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチは、ひよつとしたら、実は叔母がそんな風に邪推をしたに過ぎないのかもしれないと思つて、口をつぐんだ。
「おや、母が妹たちといつしよにこちらへ参るやうです!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチが言つた。「てつきり午餐の用意が出来たのです。さあ参りませう!」
そこで彼はイワン・フョードロ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチの手を執つて一室へ招じ入れた。そこにはウォツカの罎と前菜《ザクースカ》の載つた卓子があ
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