、父親は帽子を脱いで、珍らしい宝石入りの長劔《サーベル》を釣つた帯皮を直しながら、言つた。「もうこんなに日が高いのに、お前の家では午餐《ひるめし》の支度も出来てをらんぢやないか。」
「午餐《おひる》の用意は出来てゐますよ、お父さん、すぐに出しますわ! これ、煮団子《ガルーシュキ》の壺を下しておいで!」とカテリーナは、木の器を拭いてゐる老婢に向つて、「いいえ、お待ち、あたしがおろした方がいいから。」と言葉をつづけた。「お前は若い者たちを呼んでお呉れ。」
 一同は車座になつて床に坐つた。聖像下《ポークト》に面して父親が、その左手にはダニーロが、右手にはカテリーナと、それに続いて十人の最も信任の厚い郎党が、青や黄のジュパーンを著て居流れた。
「わしはこの煮団子《ガルーシュキ》といふものを好かんのぢや!」と、父親は一と口食つて見てから、匙を下に置いて言つた。「味もそつけもないもんぢや!」
※[#始め二重括弧、1−2−54]へん、お前さんにやあ、猶太人の索麺《ラプシャ》が気に入るだらうて。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、ダニーロは心の中で呟やいたが、口に出しては、「どうして阿父さんは煮団子《ガルーシュキ》を美味くないなどとおつしやるのです? うちのカテリーナは大総帥《ゲトマン》でも滅多に口にすることの出来ないやうな煮団子《ガルーシュキ》を拵らへるのですよ。どうしてどうして、難癖をつけるどころではありませんよ。これは正教徒の食物《たべもの》です! 聖者や使徒たちも、みんな煮団子《ガルーシュキ》を食つたのです。」
 父親は一言の応へもしなかつた。ダニーロも口を噤んだ。
 玉菜と杏子を詰めた豚の丸焼が出た。
「わしは豚は嫌ひぢや!」と、父親は匙で玉菜を掻き出すやうにしながら言つた。
「どうしてまた豚が嫌ひなんです?」と、ダニーロが言つた。「豚を食はないのは土耳古人と猶太人だけですよ。」
 父親は一層けはしく渋面をつくつた。
 老父は乳入りの*レミーシュカだけを食べて、火酒のかはりに、懐ろから何か黒い水のやうなものの入つた壜を取り出して呑んだ。
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レミーシュカ 麦粉で作つた粥のやうなもの。
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 午餐の後で、ぐつすり一と眠りしてダニーロが目を覚ましたのは、もう夕方だつた。彼は卓子に向つて、哥薩克の軍営へ送る報告を認ためにかかつた。カテリーナは寝棚《レジャンカ》に腰かけて、片足で揺籃をゆすりはじめた。ダニーロは坐つたまま、左の眼で運筆を見ながら、右の眼では窓の外に注意を払つてゐた。窓の外には、遠くの山々やドニェープルが、月光を受けて輝やいてをり、ドニェープルの彼方には森が青ずみ、上には晴れ渡つた夜空が仄かに見えてゐた。だが、ダニーロは、遥かなる空や青ずんだ森を嘆賞してゐるのではなかつた。彼は、突き出た岬に黒く浮かんだ古い城砦を眺めてゐたのである。彼の眼にはその城砦の狭い小窓からパッと灯りが映したやうに思はれた。だが、あたりはひつそりして何の変りもない。多分それは彼の気のせゐだつたのだらう。ただ下の方からドニェープルの騒音がぼんやり聞えるのと、束の間づつ喚び醒まされる波の音が次ぎ次ぎに三方から谺《こだま》して来るばかりである。ドニェープルは何ら狂奔することなく、老人のやうにくどくどと呟やいてゐるが、彼には見るもの聞くもの悉くが気に染まぬらしい。今や彼の周囲はすべてが変つてしまつた。ドニェープルはひそかに、沿岸の山や森や草原に怨恨をいだき、彼等に対する不平を黒海にむかつて訴へてゐるのである。
 と、洋々たるドニェープルの河面に、黒点のやうに一艘の小舟が浮かび出た。同時に、城砦で、またもや何かピカリと光つたやうだ。ダニーロはそつと口笛を鳴らした。するとその口笛に応じて忠実な小者が駈けつけた。
「ステツィコ、急いで、研ぎたての長劔《サーベル》と騎銃《ムシュケート》を持つて俺の後からついて来い!」
「お出かけ?」とカテリーナが訊ねた。
「ちよつと行つて来るよ、女房。あちこち一と通りみまはつて来にやならん、何処にも異状がないかどうか。」
「でも、あたしひとり残るのは怖ろしうございますわ。何だか眠気が催してなりませんけれど、また同じやうな夢を見たらどういたしませう? あたし、あれが夢だつたのか、現つだつたのか、それさへ疑はれてならないのですもの。」
「婆やがお前といつしよにゐるぢやないか、それに玄関や庭には郎党《わかもの》たちが寝てをるし!」
「婆やはもう寝《やす》んでしまひました。それに郎党《わかもの》たちも、なんだか頼りにはなりませんわ。ねえあなた、あたしを部屋の中へ閉ぢこめて、錠を下して鍵をちやんと持つてお出かけ下さいましな。さうすれば、幾らか怖くございませんから。そして郎党《わかも
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