。この先きお父さんを苦しめるやうなことは決してしないでせうから!」
「ただお主《ぬし》に免じて勘弁してやらう!」と、娘を接吻しながら、怪しい光りをその眼に漂はせながら父親が答へた。
カテリーナは少し身震ひを感じた。その接吻といひ、その怪しげな眼の光りといひ、彼女には不可解なものに思はれたからである。彼女は卓子に肘をついた。その卓子の上では、何ら身に疚しいところもなく赦しを乞ふなど、哥薩克らしくもない、へまなことをしたものだと、返す返すも無念に思ひながら、ダニーロが傷ついた手に繃帯を巻いてゐた。
四
夜は明けたが、陽の目も見えず、空は掻き曇つて、細かい霧雨が、野や森や、広漠たるドニェープルの上に降り灑いでゐた。カテリーナは眼を覚ましたが、心はむすぼれてゐた。眼も泣き腫し、全体に取り乱して、彼女は落つきを失つてゐた。
「まあ、あなた、いとしいあなた、あたし不思議な夢を見ましたの!」
「どんな夢を見たのだい、カテリーナ?」
「ほんとに変な夢ですの、ほんとに、まるで現つのやうにまざまざと、あの大尉《エサウル》のところで見たばけものが、実はあたしの父なんですの。でも、どうか、こんな馬鹿げた夢なんかほんとにしないで下さいな! 何だかあたし、そのひとの前に立つてゐたやうなんですの。怖ろしさに躯《からだ》ぢゆうをわなわな顫はせて、そのひとのいふ一言一句に身内の呻くやうな思ひをしながら。まあ、そのひとの言つたことをあなたがお聞きなすつたなら……。」
「どんなことを言つたといふのだい、カテリーナ?」
「かう言ふのです、※[#始め二重括弧、1−2−54]カテリーナ、俺の顔をよく見るがよい。どうぢや、俺は美男ぢやらうが! 俺を醜男《ぶをとこ》だなどと、他人《ひと》はくだらぬことを言ひをる。けれど、俺はお前にとつて立派な良人になれるのぢや。そうれ見るがよい、この俺の眼つきを!※[#終わり二重括弧、1−2−55]――さう言つて、そのひとは火のやうな眼差をあたしに注ぎました。それであたし、あつと声を立てたら、眼が覚めましたの。」
「さうだ、夢はよく真実を語るものだ。それはさうとお前、山むかふが穏やかでないことを知つてをるか? またしても波蘭の奴らが、ちよいちよい隙を窺ひはじめをつたらしいぞ。ゴロベーツィが使ひをよこして、俺に夜は眠るなといつて来たが、彼の心配は無用だ。俺は、さう言はれるまでもなく、眠つちやあゐない。うちの郎党《わかもの》どもは、昨夜のうちに鹿砦を十二まで設けたのだ。今に波蘭の雑兵どもには鉛の梅干をふるまひ、貴族たちには棍棒を喰はせて、一舞ひ舞はせてくれるわい。」
「で、お父さんはそのことを知つてゐるでせうか?」
「その舅《おやぢ》さんが俺の頭痛の種だて! 俺は今だにあのひとの根性を突き止めることが出来ないのだ。どうせ外国では、いろんな罪を犯して来たことだらうが、ほんとに、何だつて、かれこれひと月にもなるのに、一度も堅気な哥薩克らしい陽気な顔を見せないのだらう? 蜜酒さへ嫌つて飲まないのだ! いいかえ、カテリーナ、俺が*ブレストの猶太人からぶんどつて来た蜜酒さへ飲まないんだよ。こら、若者!」と、ダニーロは叫んだ。「穴倉へ一走《ひとつぱし》り行つて、猶太の蜜酒を持つて来い! それに火酒《ウォツカ》も飲まないんだ! 変てこな話さ! 主、基督をすら、あのひとは信じてゐないらしいよ、カテリーナ。ううん? お前はいつたい、これをどう思ふ?」
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ブレスト 正しくはブレスト・クヤフスキイと言ひ、波蘭ワルシャフスカヤ県下にある猶太人町。
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「まあ、ダニーロ、あなたは何といふことをおつしやるのです!」
「だつて、をかしいぢやないか!」と、小者から土器の水呑を受け取りながら、ダニーロは言葉をついだ。「異端の加特力教徒でも、火酒に眼がないのだ。飲まないのは土耳古人だけさ。どうだ、ステツィコ、穴倉でしこたますすつて来をつたな、お主《ぬし》?」
「ほんのちよつぴり、塩梅を見ましただけで、旦那!」
「嘘をつけ、碌でなしめ! 貴様の髭に蠅が一杯たかつとるぢやないか! お主のその眼つきでは、どうやら半樽は空《から》にして来たらしいぞ。ええつ、哥薩克、哥薩克! 何といふ勇ましい国民だらう! 何でも吝まず仲間に分ける癖に、酒のこととなると意地ぎたないのだ。カテリーナ、俺もずゐぶん久《しば》らく酔ひ心地にならなかつたやうだな。え?」
「まあ、ほんに長いことですわ! まだ、昨日……。」
「ううん、心配するな、心配するな、一杯よりは呑まぬから! おや、土耳古の僧正《イグーメン》の御入来だよ!」と、彼は舅が身を屈めて戸口から入つて来るのを見て、忌々しさうに言つた。
「これは又どうしたことぢや、娘!」と
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