でゐる。夜が明けて日が出ると、その姿は見えなくなる。ただ時たま、山の住民どもは、山腹に何か長い陰影《かげ》がチラチラ映るのに気づくけれど、空は晴れ渡つて、雨雲ひとつ無い。夜の帳が降りかかると、再びその姿は見えはじめ、湖面に影像を落して、その後ろには陰影が顫へながらついて行く。やがて彼は多くの山々を越えて、クリワン山の頂きへと攀ぢ登つた。カルパシヤ山脈のうちで、この峯ほど高い峯はなく、さながら王者の如く群山の上に聳え立つてゐる。その山顛で駒が足を停めると、騎士はひときは深い眠りに沈んだが、見る見る叢雲が降りて彼の姿をつつんでしまつた。

      十三

「しつ……静かに、婆や! そんなに敲いちや駄目、坊やが寐てるんだから。坊やは長いこと泣いてゐて、今やつと寐ついたんだから、これからあたし森へいくのよ、婆や! 何だつてお前そんなにあたしの顔をジロジロ見るのさ? お前は怖いよ。お前の眼からは鉄の釘抜がとび出してゐるわ……まあ、あんなに長い! そして火のやうに真赤に灼けてるわ! お前はてつきり妖女《ウェーヂマ》よ! ああ、お前が妖女《ウェーヂマ》なら、さつさと消えておしまひ! お前はあたしの坊やを浚つていくだらうから。あの大尉はなんて頓馬な人だらうねえ、彼《あのひと》は、あたしがこのキエフで面白い日々を送つてゐると思つてるんだわ。どうして面白いものか、うちのひとや坊やまでこつちへ来てゐて、誰が留守番をするのさ? あたし、そうつと、猫や犬にも気がつかぬくらゐ静かに出て来たんだよ。婆や、お前、若くなりたくはないかい? ちつとも難かしいことぢやないよ、ただね、踊りさへすればいいのさ。そら御覧よ、あたしが踊るから……。」カテリーナはこんなたわいもないことを口走ると、四方八方へ愚かしいまなざしを配りながら、腰に手をつがへて、もう踊りだした。甲高い声で唄を口ずさみながら、彼女はステップをふんだ。韻律もなく調子はづれに銀の踵鉄《そこがね》が鳴つた。編目《くみめ》の解けた黒髪が白い顔にパラパラと落ちかかつた。彼女は舞ひながら、まるで鳥のやうに小止みもなく手を振り、頭を揺つて、さながら力尽きて地上にばつたり倒れさうになるかと思へば、また下界から飛び去つてしまひさうにも見える。
 憂はしげにたたずんだ、年老いた乳母の深い頬の皺には、涙が溢れてゐた。忠実な郎党どもも、この女主人の狂態を眺めて
前へ 次へ
全50ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング