その赤い着物と奇妙な帽子がチラと見えただけである。ダニーロは馬上でよろめくとともに地上へ転落した。忠僕ステツィコは急いで主人の許へ駈けつけた。彼の主人は地上に身を伸ばし、明澄な両の眼を閉ざして横たはつてゐる。真赤な鮮血が胸もとから渾々と迸つてゐる。しかし彼は自分の忠僕に気がついたらしく、微かに瞼をあげると、その眼を輝やかして、「さらばぢや、ステツィコ! カテリーナに坊やを見棄てるなと言つて呉れい! お前たち、忠義な家来たちも彼《あれ》を見棄てないで呉れ!」さう言ひ終つて、彼は口を噤んだ。哥薩克魂がその由緒正しい五体から飛び去り、唇は蒼ざめて、彼は永遠の眠りについたのである。
 忠僕は泣き泣き、カテリーナにむかつて手を振つた。「こちらへおいでなさい、奥さま、旦那さまは御酒の加減で、こんな冷たい土の上へ酔ひ潰れておしまひになられました。これあ、もう、なかなかお目醒めにはなりませんよ!」
 カテリーナは驚愕のあまり、手を拍つとともに、藁束のやうに良人の屍《しかばね》の上へ倒れた。
「まあ、あなた! こんなところに、お眼を瞑つて倒れていらつしやるのがあなたでせうか? あたしの愛《いと》しい鷹、お起ちなさい、手を伸ばして下さい! 起きて下さい! せめて、もう一度あなたのカテリーナを御覧になつて下さい。ただ一言でもその唇を動かして物を仰つしやつて下さい!……でも、あなたは何にも仰つしやいませんわ、何にも、あたしの、さつぱりした旦那様! あなたのお顔はまるで黒海のやうに蒼白《あをざ》めてしまひ、あなたの心臓はぴつたり止まつてしまひましたわ! まあ、何だつてあなたはこんなに冷たいのです? あたしの熱い涙もあなたを温めることが出来ないのでせうか? どんなに大声でお呼びしても、あなたを呼び醒すことは出来ないのでせうか? これからは誰が、あなたの軍隊を率ゐてゆくでせう? 誰があなたの黒馬《あを》に跨がつて、大声叱呼しながら、哥薩克の陣頭に劔を振ふでせう? おお、哥薩克! お前たちの名誉と栄光は何処にあるのです? お前たちの名誉と栄光とは、今はもう両眼を閉ぢて冷たい土の上に横たはつてしまつた。あたしを埋めてお呉れ、この人といつしよに埋めてお呉れ! あたしの顔へ土を撒きかけてお呉れ! あたしの白い胸の上に、楓の十字架を立ててお呉れ! あたしには、今はもう美しさも要らなくなつてしまつた!」
 
前へ 次へ
全50ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング