の杭を引つこ抜くものだから、ほんの残骸を留めてゐるに過ぎなかつた。煖炉《ペチカ》も三日ぐらゐは焚かれないことがあつた。この優しい奥方は、気前の好い人々を拝み倒して手に入れた品は何によらず亭主の眼の届かぬところへ蔵《しま》ひこみ、時たま亭主が酒場で呑みあまして来た小銭まで巻き上げてしまつた。教父《クーム》はいつもの無頓着さにも似げなく、女房には負けてゐなかつたので、何かといへば必らず、眼の下に血紫斑《ちあざ》をつけて家から逃げ出した。それでゐて、この有難いかみさんは、溜息をつきながらほつつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、自分の亭主のだらしなさや、自分がどんなに酷い仕打を我慢してゐるかといふことを、婆さん仲間に吹聴して歩いたものだ。
 これだけ話せば、この思ひがけない女房《かみさん》に飛び出されて、織匠《はたや》と教父《クーム》がどんなにおつ魂消たかは、蓋し思ひ半ばに過ぐるものがあらう。彼等は袋を下へおろすと、それを後ろへ庇ふやうにして、裾で隠さうとしたが、既に手遅れだつた。もう老の眼が、いい加減うとくなつてゐたにも拘らず、教父の女房は疾くもその袋を見つけてしまつた。
「これあ好かつたよ!」と、禿鷹が有卦に入つたやうな顔つきで彼女が言つた。「おやおや、そんなに、よく流して来なすつただねえ! 堅気な衆といふものは、いつでもかうなくつちやならないのさ。だが、ひよつと何処かでかつぱらつて来たんぢやあるまいね。さあ妾にお見せ、早くその袋を妾にお見せといつたら!」
「額の禿げあがつた悪魔なら知らぬこと、おいらは見せねえよ。」と、虚勢を張りながら教父《クーム》が言つた。
「お前さんに何の用があるだね?」と、織匠《はたや》も口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。「これあお前さんのぢやなくつて、あつしたちが流して来たんだぜ。」
「いんにゃ、妾にお見せつたら、この碌でなしの呑み助野郎め!」さう呶鳴るといつしよに、女房は、のつぽの教父《クーム》の顎へ拳骨を一つ喰はせておいて、いきなり袋へ飛びかかつた。
 しかし織匠《はたや》と教父《クーム》は勇敢にも袋をかばつて、彼女を遮二無二後ろへ突き戻した。だが、二人がほつとする暇もなく、女房は土間へ降りて、火掻棒を手にしてゐた。そして逸早く亭主の両手と、織匠《はたや》の背中とへ火掻棒で一撃を与へておいて、袋の傍へ駈け寄つた。
「何だつて、かみさんに勝手な真似をさせるだね?」と、我れに返つた織匠《はたや》が苦情を言つた。
「へつ、勝手にさせるもねえもんだ! ぢやあ、なんだつておめえ、彼女《あいつ》を近づけてしまつたのだい?」教父《クーム》は冷やかにさう答へた。
「あんたとこの火掻棒は鉄ぢやと見えるね!」暫らく黙つてゐた後、背中をさすりながら織匠《はたや》が言つた。「うちの女房《かかあ》が去年の市《いち》で二十五|哥《カペイカ》出して買つた火掻棒は、こんなに……痛かあねえだが……。」
 一方、勝ち誇つた女房は、床に油燈《カガニェーツ》をおいて、袋の紐を解くと、早速なかを覗いた。
 ところが、さつき、あんなに目ざとく袋を見つけた、さすがの彼女の老の眼も、今度ばかりは確かに鈍つてゐたらしい。
「へつ、この中にやあ、野豚がまるまる一匹入つてゐるよ!」さう喚《わめ》きざま、彼女は嬉しさのあまり手を拍つた。
「野豚だと! おい、まるまる一匹の野豚だとよ!」さう言つて、織匠《はたや》は教父《クーム》をゆすぶつた。「だが、何もかもお前さんのせゐだよ!」
「どうしやうがあるもんけい!」さう言つて教父《クーム》は肩をすぼめた。
「しやうがないつて? 何をおいらは、ぼんやり突つ立つてるだ? 袋を取りかへさにやあ! さあやらう!」
「さあ、退《ど》いてお呉れ! とつとと退《ど》いてお呉れ! これあ、あつしらの豚だよ!」と、織匠《はたや》は前へ飛び出しながら叫んだ。
「どきやあがれ、くそ婆あめ! これあ手前のもんぢやねえぞ!」と、教父《クーム》も詰めよりながら呶鳴つた。
 女房は再び火掻棒に手を掛けたが、ちやうどその時、袋のなかからチューブが這ひずり出して、たつた今、長い眠りから眼が覚めたといはんばかりに、伸びをしながら、玄関のまん中にぬつと突つ立つた。
 教父《クーム》の妻は膝を叩いて、あつと叫んだ。一同も思はず口をあんぐり開けた。
「どうでい、この馬鹿女めが、野豚だなんて吐かしやあがつて! こんな野豚があるけえ!」教父《クーム》は眼を剥きながら、さう言つた。
「ちえつ、飛んでもねえ人間を袋へ押し込めたものだ!」と、魂消て後ずさりをしながら、織匠《はたや》が言つた。「なんとでも好きなことを言ひなされだが、これあ、てつきり悪魔の仕業に違えねえぜ。第一これあ、窓から這ひ出すこと一
前へ 次へ
全30ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング