らう! それに帽子はソローハの家へ置いて来てしまつたし。ままよ、娘つ子が橇で運んでくれるのに委せることだ――さう彼は考へたのである。
 ところが、事態はチューブの全く予期せぬ結果になつた。ちやうど娘たちが橇を取りに駈け去つたのと同じ時刻に、痩《やせ》つぽの教父《クーム》が、いやに取り乱した、不機嫌な顔をして酒場から出て来た。酒場の女主人が頑として彼に貸売を承知しなかつたためだ。彼はひよつと誰か信心深い貴族でも来あはせて一杯振舞つて呉れるまで、じつと酒場で待つてゐようかとも思つたが、折悪しく、申しあはせたやうに貴族といふ貴族がみんな我が家に居残つて、堅気な基督教徒らしく、てんでの家族といつしよに蜜飯《クチャ》を食つてゐた訳だ。教父《クーム》は酒商売をしてゐる猶太女の汚ない根性と木石のやうな情《つれ》なさを忌々しく思ひながら、とぼとぼと歩いてゐたが、はたと袋につまづいて、びつくりして立ちどまつた。※[#始め二重括弧、1−2−54]はて、誰だかえれえ袋を道のまんなかに放つて行きをつたぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、四方から仔細に眺め※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら彼は呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]屹度この中にやあ豚肉が入つとるぞ。どいつだか運のええ奴が、流しでしこたま詰め込みやあがつたな! どうも、おつそろしい袋ぢやて! まあ、この中に蕎麦麺麭《グレチャーニック》と揚煎餅《コールジュ》ばかり詰まつてゐるにしても豪勢だが、これがみんな扁平麺麭《パリャニーツァ》だつたら、占めたものだ。あの猶太女め、扁平麺麭《パリャニーツァ》一つで火酒《ウォツカ》を一杯づつはよこすからな。誰にも見つからないうちに、早く持つて行かう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 そこで彼は、チューブと補祭の入つてゐる袋を肩へしよつて見たが、それがどうも実に重い。※[#始め二重括弧、1−2−54]いや、これあ一人ではとても運びきれん。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼は弱音を吐いた。※[#始め二重括弧、1−2−54]やあ、ちやうど好いところへ織匠《はたや》のシャプワレンコがやつて来をつたぞ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]「よう、オスタープ、今晩は!」
「今晩は。」と、織匠《はたや》は立ちどまつて返辞をした。
「どこへ行くだね?」
「いや別に。ぶらぶらしてゐるだけで。」
「お前さん手を貸してお呉れな、この袋を運ぶんだよ! どいつだか流しでしこたま貰ひ集めておいて、こんな道の真中へ棄てて行きをつたのぢや。儲けは山分けにするよ。」
「袋だつて? 何が入えつてるだね、白麺麭《クニーシュ》か、それとも扁平麺麭《パリャニーツァ》でも入えつてるだかね?」
「うん、いろいろ入つとるらしいだよ。」
 そこで二人は、手早く籬《まがき》から杭を二本ひき抜いて、それへ袋を一つ載せると、肩に担いで歩き出した。
「いつたい何処へ持つて行くだね、酒場へ行かうか?」と、途中で織匠《はたや》が訊ねた。
「それあ、おらもさう思はんでもねえだが、あの忌々しい猶太女め、てんでおれを信用しをらんのぢや。それでまた何処ぞで盗んで来たんだらうなどと、疑ひをかけるかも知れんと思ふのさ。それにおれはたつた今、その酒場から出て来たばかりだでな。これはおらの家へ持つて行くことにしよう。誰も邪魔者はゐねえだから。なあに、女房《かかあ》も家にやゐねえんでね。」
「おかみさんが留守だつて、それあ確かなことかね?」と、用心深い織匠《はたや》は念を押した。
「お蔭で、まだそれほど耄《ぼ》けちあゐねえよ。」と、教父《クーム》が言つた。「あいつのゐるとこへ、のめのめと帰えつて堪るもんけえ。おほかた夜明けまで婆あ仲間とほつつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてやがるだらうよ。」
「誰だい?」と、表口へ二人の仲間同士が袋を担ぎこんだ物音を聞いて、教父の女房が家の中から戸を開けて呶鳴つた。
 教父《クーム》は立ちすくんでしまつた。
「そうら見なせえ!」と、がつかりして織匠《はたや》が呟やいた。
 教父《クーム》の女房は世間によくある型のかみさんだつた。亭主とおなじやうに、彼女も殆んど家にはゐないで、まるで日がないちんち中、おしやべり仲間や金持の老婆の家へ入りびたつて、おべんちやらを並べながら、ガツガツと物を食つてゐたが、朝の間だけは亭主とよく啀《いが》みあひをやつた、といふのは、朝だけは教父《クーム》と顔をあはせることが間々あつたからで。彼等の家は郡書記のはいてゐる寛袴《シャロワールイ》の二倍も古びてゐた。屋根にはところどころ藁も無い処があつた。籬はといへば、きまつて誰も彼もが外へ出るとき、犬除《いぬよ》けの杖を持つて出ずに、教父《クーム》の家の菜園を通りすがりに手頃
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