目のない時が多かったのです。
(あの人がもしちょっと後を振向いてそしてあたしを恋していると一言いってくれたらば――)と彼女は思うのでした。(……でも結婚なんてあたし厭だわ。弟ならいいわ。あんた、あたしの亡くなった弟とそっくりなんですもの……とそういおうかしら――)
青年とても、屹度彼女に恋しているのに違いありません。その証拠には、青年は殊の外なる臆病者と見えて、彼女とそこで顔を合わせるや、いつでも真赤になって、そっぽ向いて、ひたすら海や松林の景色なぞ、あらぬ方ばかりを眺めるのです。
もしかして自分が世にも名高い女優であることを、このあざらし[#「あざらし」に傍点]のように内気な青年は知らないのではあるまいかと疑ってもみるのですが、いつか海岸で恰度青年がしゃがんでいた砂の上に彼女の名前が大きく書かれてあるのを見かけたことさえあったし、そんな道理はない筈です。――彼女は華車《きゃしゃ》な両肩がぴんと尖った更紗模様の古風な上衣を着て、行儀よくいずまいしたまま、青年の後姿を腹立しげに睨むより仕方がありませんでした。
*
彼女は、なんとかして青年と近づきになれるような大きなき
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング