しんしんと不忍池の面をこめて降っていた。私はレインコオトの襟を立て、池の縁にあるからたちの垣根の前にぼんやり佇んだが、すぐに電車道に沿って色の褪せた博覧会の正門の方から、洋傘を阿弥陀に傾けながら、私の方へ向かって歩いて来る我がミハエルの姿が目に入った。先方では私に気がついたらしく、何時もするように優しく微笑してうなずいて見せた。
 私共は一本の傘に入って山下の方へ出た。
 ――今夜おひまですか?」とミハエルはふとそんなことを訊いた。
 ――ええ、別に。」と私は答えた。
 ――それでは、今晩はお酒を飲みましょう。」
 ――いいですね。」
 私は彼の唐突な言葉に些か驚いたが、彼と一晩酒をのんでいろいろ語り合うことはもとより願うところであった。
 私共はそれから、程近い郊外にある私の心やすい小いさな酒場《バア》へ行った。雨が降っているし、学生は大方試験最中だし、酒場は静かであった。
 私共は、可愛い男刈りの頭をした女の子に、我々がえくぼ[#「えくぼ」に傍点]ウイスキイと呼んでいる先ず上等の種類のウイスキイを誂えて飲んだ。
 ――あしたも雨でしょうか?」と私が云えば、
 ――怪しいもんですね。」とミハエルは答えた
 ――博覧会もあと一週間きりですが、運が悪いとこれっきり晴れずにしまうかも知れませんな。」
 ――ああ!」ミハエルは、何杯目かのグラスを一気に飲み干して、大きな溜息を吐いた。
 ――で、結局あなたの地上の宝とやらは見つからないのですか?」と私は切り出した。
 するとミハエルの眼に、急に大きな泪が溢れて、それが白い滑かな頬を伝って、茫々たる髯の中へ流れ込んだ。
 ――酔っぱらいましたね。」と私は笑った。
 ――酔っぱらいました、そこで私は私の地上の宝について、いよいよあなたにお話して差し上げようと思うのです。」と彼は云った。
 ――有難う。もう一杯おあがりなさい。」
 私は彼のグラスへ新しくウイスキイを注がせた。
 ――これは恋の話です。」と彼は云った。「地上の宝とは、それこそ天地に掛け更えもない、私のたった一人の恋人なのです。」
 ――恋物語だったのですか――なんとねえ!」と私は少からず面喰った。
 ――神様の啓示です。聞いて下さい。……もう殆ど三月も前のことですが、故国から訪ねて来た友達を案内して、瀬戸内海の方へ見物旅行に出かけるつもりだったので、M百貨店へ行って買物をして序《ついで》に双眼鏡を一つ買いました。そして、その買いたての双眼鏡をもって、私はM百貨店の屋上から初覗きに東京中の景色を眺めまわしてみました。晴れた日の午さがりで、大きな貨物船の沢山浮かんだ碧い品川の海や、数え切れない程の煙突や、とたん屋根や、洗濯物が一っぱいかかっている物干しや、いろんなものが見えました。上野の山の青空に風船が浮かんで、その下に散りかけた桜の花が煤けた古綿のように汚ならしく見えました。それから、その次にレンズを動かしたはずみに、大ぜいの市井《まち》の人々の姿が映りました、その中に、ふと私は非常に綺麗な娘さんの顔を見つけました。純然たる日本の髪を結った少女で、東洋的美しさの典型とも云いたい、仏さまのような優しい清らかな顔でした。私は一眼見てはげしく心を打たれてしまいました。たとえようもない無二無三な恋慕の情がするどく胸をかきむしりました。私は幾度もピントを合せ直しました、併し、あまり焦立ったために、却って最初の正しい焦点をなくして一層うろたえている中に、情ないことにも、彼女の姿はやがて行き交う人々の蔭へかくれてしまいました。そして、どんなに追求しても無駄でした。私はあらゆる努力を払って彼女をもう一度探し出そうと固く決心しました。それで瀬戸内海行も中止してその日以来、縁あるものならば永い間には再び会えぬ筈はないと信じて、M百貨店の屋根で、その日と同じ刻限には必ず見張りに立つことにしたのです。が、考えて見れば、彼女の姿の見えたところが上野の方向に当っていたことだけは確なのだから、これは博覧会の風船の方がずっと有利であると覚って、早速計画を変更して軽気球へ乗りました。けれども一月経っても、二月経っても、私の果敢ない恋が何の報いられるところもなかったことは御存知の通りです。博覧会はいよいよおしまいになります。今更M百貨店の屋上へもどる勇気も失せてしまいました。私の恋としたことがたとえばシベリアの大森林の中へ落下してそのまま落葉の底深く永遠に埋もれてしまった隕石の運命の如くに、よくよく不仕合せなものかも知れません。」
 西洋人はすすり泣きに泣いた。
 ――それは、それは……」とそう云って私もつい悲しくなった。
 私はよろめきながら周章てて立ち上って女の子を呼んだ。
 ――おけいちゃん、おけいちゃん! えくぼウイスキイのお代りじや!」

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 博
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