です!」と私は叫んだ。
 税関の役人はドギマギとしてその髭のない貧しげな顔を両手で抑えた。
 父。髭なし。麦わら帽子。鼈甲縁眼鏡(時として使用す)赤地ネクタイ。その他、※[#「さんずい+肅」、第4水準2−79−21]洒たる青年紳士――。
 親切な税関の役人は右のような人相書を作って、サクソニヤ号の次の寄港地へ宛てて照会した。しかし、もとよりそんな人相書は、たとえばその中の赤地のネクタイ一本がもつ手がかりよりも、決して重要な特徴を示していなかったことは事実である。
 私はそして、到頭その朝、そんな風にして父から見捨てられてしまった。これから私は全くたった一人ぼっちで、この堪え難い人生を渡って行かなければならないのだ……。
 それにしても、自分の父の顔位は、よしやその髭がなくなったとしても、決して見忘れない程度に、よく見憶えて置くべきことである。



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」
   1929(昭和4)年7月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年7月28日公開
2007年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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