三本煙突の西洋館にいた炊事婦であったことを思い出した。
 ……三本の煙突! 彼女の胸は俄に痛み初めた。
 ――ねえ、お婆さん。もうせんお婆さんのいたお邸の屋根の三本煙突の真中の一本は、何時でも煙を吐かなかったわねえ……」
 ――煙突でございますって?」老婆は遉に彼女の突飛な質問を解しかねたようであった。
 ――ええ、そう。……でも、ほら、十年位前にちょっと一年ばかし煙が出ていたことがあったわね。お婆さん御存知?……」
 ――おやまあ、お嬢さまこそよく憶えていらっしゃいましたこと……」と老婆はようやく思い出して云った。「そうそう、そんな事もございました……なんでも、あの時は恰度御本家の若様が来ていらっしゃった頃でございます……若様は或る日不意に、あの赤い煙突から煙を出すんだと仰有いまして、危いところを梯子をかけて煤で真黒になりながら、赤い煙突の下へ管を通して、無理矢理に煙を出したんでございます。……なあにねえ、お嬢さま、あの赤い煙突は初めっから壊れて――煙穴が続いていないので、ただまあ飾り同様のものだったのでございますよ。……どうしてまあ、わざわざあんな莫迦げたものをつけたのでございますか……」
 そこで、彼女の心からはどんな悲しみも消え失せた。
(――飾も同様だって!……初めっから壊れていたのだって!……若しも、あの赤い煙突があたしだったとすれば、あたしは初めっから生まれて来る筈じゃなかったのだわ!……)

 彼女は老婆が帰って行って一人になると、古い手筥の中から、久しい間大切にして蔵ってあった四折の厚紙に書いてある手紙を取り出して、それを声を出して読んで見た…………
[#ここから引用文。本文より二字下げ。行あけなし]
僕の好きな人――僕はあなたが好きです。けれども、それはいけない事なのだそうです。あなたのお父さんもお母さんもそう仰有って僕をお叱りになったし、また僕のお父さんもお母さんもそう云って僕を叱りました。
………………
[#ここで引用文終わり]
 ――あの方はあたしより八つ年が上だったから、これを下すった時は二十五だわ。……まあなんて可愛らしいお坊っちゃんだったのでしょう。二十五にもなってこんな手紙を書いたりして! まるで十八位にしか思えないわ……それに煤だらけになりながら梯子をかけて煙穴のない煙突へ管を通しに上ったりなんかして……可笑しい人ね……そうそう、あたしの肺炎が快くなりかけて、はじめてあの煙突から煙の出ているのを見付けて笑った時、あの人は泣いていたわ……けれども、もう、みんな……みんな……台なしだわ!……でも、若しあの人が何時迄もあの赤い小いさな煙突の下に住んでいてくれたなら、あの煙突はまるで最初から飾物でなぞなかったような顔をして、毎日々々煙を吐きつづけたかも知れなかったのに……」
 それから彼女はその手紙を幾つにも幾つにも細かく引き裂きはじめたのであった。……



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年11月16日公開
2002年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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