全くわからなかった。
 けれども彼女は、
(――あたしの赤い可哀相な煙突は煙を吐かない。でも、やっぱりそれが本当だわ。……可哀相な煙突!……そして可哀相な可哀相なあたし!)と満足して、泪でぼんやりした眼で、青年のいなくなった西洋館の屋根を眺めた。

 十年の歳月が流れてしまった。
 彼女の両親はすでに死んでいた。彼女は結婚して、西洋館の隣とは異う家に住んでいた。町端れの、月見ケ丘に近いところであった。したがって最早や、赤い煙突を可哀相に思うこともなかった。併し、彼女は決して幸福ではなかった。彼女の良人は相当腕のいい機械技師で人間も悪くなかったが、酒を飲むと病弱な妻をひどくいじめた。それに一層悪いことには、彼女は近頃になって、毎日のように執拗な――彼女の肉体の分解が大して遠くはないことを予知させるような熱に襲われて殆ど床をはなれることがなかった。それで良人は家へ帰らない日が多くなった。しまいには一週間にたった一度も帰らないことがあった。そして家計《くらしむき》にも困るようになった。
 彼女は子供の時からずっとそうして来たように二階の窓の近くに床をのべさして寝ていた。けれどもそこの窓から見えるものは西洋館の屋根の三本煙突ではなかった。碧い色の海と月見ケ丘のきりぎしとであった。月見ケ丘には恰度月見草がさかりであった。たそがれが迫る頃、彼女は窓敷居に凭掛って首をさしのべて淡黄色い花でいっぱいになった丘の方を眺めた。彼女の顔の両側には最早や大きなリボンを結んだ振分髪は垂れていなかった。長い病気のために、ざらざらに脱けて少なくなった毛が、夕風に悲しげにそよいでいた。
(――可哀相な、可哀相なあたし!……)
 彼女は十六の彼女と少しも変らない泪を滾して子供のように泣いた。彼女の感動し易い性質は年と共に決して薄れて行きはしなかった。……併し、到頭その無限の泉のようにさえ思えた彼女の泪も涸れる時が来た。
 或る日、一人の老婆が彼女を訪れた。町で芸者をしていた、老婆にはたった一人の娘が彼女の良人と一緒にそこの港から姿を消してしまったと云うのである。
 ――極道な娘でございます。お気の毒なお嬢さま……」と老婆はしょぼしょぼした眼を拭いながら彼女に詫び[#底本では「詑び」と誤植]た。
 彼女は――お嬢さま――と云う言葉を聞いて、その老婆を何処かで見たことがあるような気がした。そして、昔あの
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