くもなかったので、再びファイヤープレイスの前に戻りました。そして巻煙草箱《シガレツチェスト》から新しい奴を一本つまんで銜えた途端です――オヤ! 再び、今度は前よりもはっきりと物音を聞いたのです。ヒョイと窓の方を、いま窓帷を開けたなりにして来た窓の方をふり返ると、まァ! どうでしょう。窓ガラスに、ぼんやりと一人の支那人の顔が浮んでいたのじゃありませんか。胡なのですよ。ずぶずぶ[#「ずぶずぶ」に傍点]に濡れているとみえて髪の毛がべっとりと額にみだれかかっていて、真蒼な顔色をして、おびえ切った様な眼で僕の方を見入り乍ら、何か喋っているのか、しきりと喘ぐ様に口を動かしているのです。あまりの事に僕は度ぎもを抜かれて了ってしばらくは唖然としていました。が、やがて、やっと立ち上がって其処へ進み寄ろうとしたその時、急に彼の眼に非常な恐怖と怨恨との入りまじった色が浮び出てグイと僕をねめつけたかと思うと、突然、その顔は消えてしまいました。それはまるで、大きな機械にでも巻きこまれた様な、急激な勢で闇のなかへ消え去ったのでした。僕は思わずぶるぶるっ[#「ぶるぶるっ」に傍点]と身を震わして二三歩あとずさりをしました。そして再び窓ぎわにかけ寄ってガラス戸を押し開いてみた時には、もはや、戸外《そと》の闇の中には何ものの気はいもありませんでした。ただ、犬がこの時またひとしきりはげしく吠えはじめていたのが、怪しいと云えば怪しかったかも知れません。(――清水茂は異常な恐怖に迫《おそ》われているらしく顔色を蒼白に変えながら語った)……はて、これは訝《おか》しなことがあるものだ。気の迷いかしら、それとも揺椅子でぬくもりながらついウトウトとしてしまって夢をみたのかしら――酒と阿片とでいい加減狂いかけている俺の頭だもの、その位の気の迷いや夢がないとも云えない――が、併しそんな風に簡単に思いなしてしまうには、どうもすべてがあんまりまざまざ[#「まざまざ」に傍点]とし過ぎている。雨の音だって、犬の吠え声だって前後とちっとも変らない明瞭さで聞こえていたのだし、それに彼奴の恨めし相な凄い顔! いや、どうして気の迷いや夢とは思われん……むしろ幽霊を信じた方がもっと間違いがなさ相だ……おやおや、俺はひょっとしたら本当に気が狂いかけているのかも知れないぞ! ――と、そんな風に僕はそれこそ本当にその場で狂気でもし兼ねない迄の気持になってしまいました。するとこの時、けたたましく卓上電話のベルが鳴りひびいたのです。出てみると、聞き覚えのない男の声が遠くで、併しはっきりと聞こえていました。「……清水君。清水君! 君は明日スペエドのジャックをひきますよ」とね。僕は腹が立ったので、「誰だ! 縁起でもねえ!」と怒鳴りつけてやったのですが電話はその儘切れてしまいました……かさねがさねの薄気味の悪い出来事に、僕は一層気を滅入らしてしまったのですが、併し勿論そんな電話なぞは誰かの悪洒落、と思えば思えないこともなかったし、それよりか先刻の胡の顔の方が遙かにまして僕の心をひきつかんでいたので、ついそれっきり忘れてしまいました――そしてその電話の事はそれから七年の間、ついぞ一度も思い出した事がありませんでした――で、その夜は、折角の楽しい瞑想を目茶々々に打ち壊されてしまったのがひどく腹立たしかったので、またその底気味の悪い怪しい出来事に何時までも思い悩まされているのはとても堪らなかったので、有合したコニャク酒をしたたかに呷るとその儘、寝込んでしまいました。
 するとその翌朝になって帳場のそばの溜まりで、ガルソンから、けさ一人の支那人が宿《うち》から程遠からぬ所を流れている黄浦江《おうほこう》の河岸に惨殺されていた、と云う話を聞かされたのです。ところがその殺された支那人と云うのが、年恰好や人相や服装がどうも胡らしいのではありませんか。僕は愈々すっかりおびやかされてしまいました。若しその場に探偵でも居合せたなら必ずや僕のそぶりに容易ならぬ疑をかけたに相違ありません。僕にはとても、その死骸をわざわざ見届けに行く程の勇気はありませんでした。(併しそれは正しく胡に違いなかったのです。その日の夕刊に詳細にしるされてありました)胡は僕の室の窓ぎわで室内の僕にむかってまさに何かを告げようとしていた時だしぬけに背後から加害者――多分大ぜいの、加害者のために引きずり倒されて拉致し去られたものと見えます。その証拠には僕はその窓下で、雨に濡れた庭草や植木などが泥だらけの足痕で散々に踏みみだされているのを発見しました……併し、それならば胡は何者のために殺されたのだろう……そしてまた何の目的をもっておそろしい雨の夜僕の部屋外まで出かけて来たのであろう……何を彼は僕に語ろうとしたのであろう――昨夜《ゆうべ》の青ざめたすごい支那人の顔が、僕
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング