夜の明け方であったろうか――何しろ時間の観念はまるでなくなっていた僕でしたから。とにかく戸外は真暗な夜に違いなく、その地下室の倶楽部には美しい吊燈籠が仄明るくともっていました。その夜も僕は云う迄もなく、麻雀に夢中になっていたのですが、僕の相手と云うのは、倶楽部の番人で胡《ホー》と云う中年の支那人でした。胡は古くからこの倶楽部にいて、因業な、併し物固い(?)そして恐しくばくち[#「ばくち」に傍点]運の強い男として知られていました。所が、その夜は流石の彼も僕の為に散々な負け方をして、一文なしどころか手も足も出ない程の莫大な借金をしょわされてしまったのです。彼はしばらく卓の上に顔を伏せてひどく悲しげな、小犬の様な声を洩らして泣いていましたが、やがてふらふらと立ち上って何処かへ出て行きました。が、間もなく彼は再び戻って来て僕をそっ[#「そっ」に傍点]と、部屋の隅の紫檀の衝立の蔭に呼び寄せたのです。そして其処で彼は、青繻子の上衣のだぶだぶ[#「だぶだぶ」に傍点]な袖の中から一つの見事な象牙の牌《ふだ》を取り出して僕に示しながら、ぶつぶつと囁く様に云いました。「……これをあなたに上げます。けれども、これは、どんな事があっても、決して、他の誰にも見せてはいけませんよ。よござんすか、屹度ですよ――」と、僕には彼の言葉の意味はよく解らなかったけれども、とにかく、その牌は僕の要求するものより遙かに値打があるものらしかったので、即座にその旨を承知しました。
僕は到頭、麻雀に、かけがえのない命までを賭けてしまったのです……
宿にかえってから、それでも矢張り何となく胡の云った言葉が気にかかっていたと見えて、扉《ドア》に鍵を下ろして窓をすっかり閉めてから、さて、密かにその牌をあらためて眺めました。と僕はそれが、先に値ぶみしたよりも更に高価な品であるらしいのでびっくりしました。古びた、厚み五分、二寸四方位の四角い上等な象牙で、表面には精緻な菊花が一面に彫り出されてあって、しかもその花のひとつひとつが何れも素晴しいルビイの芯を有っているのです。その真赤な宝石の色の鮮かさは、真白い滑々の象牙の中に埋まって不気味な迄に生き/\として――何故かそんな感じがしました――燦っているのでした。そして、その裏面には何処の国のとも、僕にはさっぱり解らない象形文字みたいなものがべた[#「べた」に傍点]に彫りきざまれてありました。僕はこの全く思い設けぬ掘出し物にホクホクと喜んでしまいました。可笑しなもので、すっかり大金持になった気持の僕はそこで、急に日本へ帰りたくなり出したのです。そうして、一端そう思い立つともう矢も楯もたまらなくなって、恰度その日から一週間目に出る便船で、出発《た》つことに決めてしまったものです。
ところが、その愈々たつと云う、三日前の晩でした。冷たい雨が少し強加減に降る晩でした。僕は朝っから手まわりの荷物の始末などしてずうっと晩になっても宿にいました。夜、僕が何処へも出ずに宿におち着いているなんて、ほんとうにめったにない珍しい事でした。ただ一人、部屋に籠って明々と燃えているファイヤープレイスの前に揺椅子をひき据えていました。何故ならば、もう世の中には冬がやって来ていて、大陸の夜気は可成り底冷えがしていましたから。そして窓外のザアザアと云うはげしい――と云っても決してそれは不愉快でない程度におけるはげしさの雨の音をじっと聞き乍ら、久方振りで眺められる懐しい東京の風景……家こそもう失くなっていたが僕の生まれた土地である美しい浜町河岸の夕まぐれや……こんな雨の晩にはさだめし絵の様に綺麗に見えたであろう、人形町通りや……または白い水鳥がいくつも飛んでいる霧のかかった大川の眺めや……それから或は幼ななじみのいろんな年寄りや友達や……それらのさまざまな楽しい想い出に浸って、可成り上機嫌になっていたのですが、その楽しい瞑想をしばしば不意に破る者がありました。それは僕の室から程近い玄関口の方に当って時折、するどく、けれども何となく物悲しい余韻をひびかせて、犬が吠え立てるのであって、僕はあまり雨降りの夜に犬の吠声を聞いた事がなかったもので(むろんそれは人通りの少い故にもよるのだろうが)――ちょっと訝しく思ったのでした。殊にその夜の雨足は今も云った様にかなりはげしかったのですからね。けれどもまたそれだけに一層、碌に泊客もないらしいこの宿屋の一室には物寂しい、しみじみとした静閑《しずけ》さがみちていました……と、僕はふと耳を澄ましました。僕は気のせいか、或かすかな物音を――窓ガラスを誰かが極めて静かに叩いている様な物音を聞いた様に思ったのです。僕は立って窓帷《カーテン》を開けてみました。けれども勿論、そんな真暗な大雨の夜に窓から訪れて来る様な酔狂なお客様の影なぞは見とめるべ
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