ためて前後左右を見返して、人影のないのを確めると、さて――(何しろ春の黄昏で、月がさしていたことだし……)と心の裡に言いわけをして、その少女が好んで唄っている「汝が像」と云うハイネの詩にシューバアトが曲をつけた歌を口笛で吹いてみた。
   〔Ich stand in dunkeln Tra:ummen und〕
 starrt, ihr Bildness an,
   Und das gelibte Antlitz
 hoimlich zu leben begann.
   ……………………………………
 …………………………
 ところが、一章唄い切らない中に井深君はやめた。
 行くての向う側の家並に切れ目が見えて、つまり横通りがあって、其処の角の赤と緑との明るい灯がついている下に何やら人々がごたごたとたかっているのである。色のついた灯は Owl Grill & Restaurant と大きく切り抜いた西洋料理店の軒燈であった。おや――喧嘩かな。アウル・グリル・エンド・レストラントか? 上海にいた時分には、あすこへよく飯を食いに行ったものだったが……。と、井深君は、平常ならば銀座の真中
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング