―なあに?」
 ――僕は、幸せだよ。」
 ――…………」
 ――幸子さんが、たった一度接吻してくれたばかりで、こんなに元気がついてしまったのだって、兄貴にそう云ってみようかな。」
 ――あんたは、悪党よ。」
 ――結構……」
 ――あたしが、あんたを愛しているとでも思ったら、それこそ大違いだわ。」
 幸子は、花をうっちゃって立ち上がった。
 ――嘘だ! 幸子さんは、心の底では誰よりも一番僕を愛していなければならない筈だ。一時眠っていた昔の僕たちの恋が目をさましたのだよ。あんなに一途だった人間の愛情がそう簡単に亡びてしまうわけはないのだからね。僕は長いこと待った……」
 ――あたし、死にかけた人間なんかに恋をしなくってよ!」
 幸子は、そう云い捨てると、駈け出した。
 旻は、周章て縁側から芝生へ飛び降りた。そして跣足《はだし》のまま、蹌踉《よろめ》[#ルビの「よろめ」は底本では「よろめき」]きながら、咳につぶれた声で呼び立てた。
 ――幸ちゃん! ごめん、ごめん。……幸子さん!」
 併し、幸子は、振返りもせずに、どんどん裏木戸から断崖《きりぎし》の松林の方へ走り去った。旻は踏石の上の庭下
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