ことであった。
 晃一は弟とならんで床に入ったが、荒模様になった潮鳴りが耳について、却々眠られなかった。枕元のスタンドランプには、幸子が編んだ南京玉のついたレースの覆いがかけてあった。
 ――兄さん。」
 眠っていると思った旻が突然呼びかけた。
 ――何だね、氷か?」
 ――いいいや、……兄さん、兄さんは、幸子さんが本当に誤って落ちて死んだものと信じていますか?」
 ――どうして? だって、それ以外に考えようがないじゃないか。」
 ――ところが、実際はそうではないのだ。」
 ――彼女《あれ》には自殺する程の不満はなかった筈だ。彼女は、せい一っぱい僕を愛し、そして僕に愛されることによって満足していた。」
 ――嘘だ。あの人が愛していたのは、兄さんではなかったのだ。」[#「なかったのだ。」」は底本では「なかったのだ。」]
 ――お前は、まさか、幸子が自分で飛び降りて死んだなぞと云うのではあるまいな。」
 二人の声は、夜更けの空気の中にからみ合った。
 ――そうではない。幸子さんは殺されたのだ。」
 ――何だって※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 ――幸子さんは、突き落とされたのだ。……僕が幸子さんを突き落としたのだ。」
 ――しッ[#「しッ」は底本では「しツ」]! 下らないことを云うのは止せ。冗談にしろ、看護婦にでも聞かれたら厄介な話だ。」
 ――誰が冗談にこんなことを云うもんか。すっかり話をしよう。」
 ――お願いだ。もっと静かな声で喋ってくれ。」
 そこで、旻は兄に次のようなことを打ち明けた。
 ――僕の幸子さんに対する愛情は、僕たちが引きさかれてしまってからだって、ちっとも薄らぐことはなかった。いくら諦めなければいけないと自分の心に云いふくめてみたところで、所詮無駄だった。そして兄さんを怨んだ。我々の如き境遇にあって、たとえ幸子さんが兄さんの許婚であったにせよ、二人がお互に一切を擲って愛し合っているものを、引きはなす権利が兄さんの何処にあろうか! 兄さんが彼女を愛しているから、なぞと云うのはまことに理不尽千万な、この上もなく無法な理屈だ。僕には到底ゆるせなかった。僕は、どんなことがあったって、必ず幸子さんを自分のものにしてみせる覚悟だった。併し、悲しいことに、間もなく当の幸子さんが心変りしたものと見えて、むざむざと兄さんの妻になった。僕は結婚式に列《つらな》った時、心の中に復讐を誓った。まさか殺そうとまで計画しなかったけれども、そんなに義理人情を弁えない兄夫婦であるならば、その無節操な嫂《あによめ》に対して敢えて不倫を行ったところで、自分の良心に恥ずべきところは些もない筈だと考えて、窃に機会を待つことにした。これは今になってみると如何にも卑劣極まる考え方に違いないのだが、生れつき小心な上に病気のお蔭で一層卑屈になった根性で、どうにもならなかったのだ。兄さん達が結婚後二人連れで、僕を見舞に来てくれる度毎に、睦しい夫婦仲を見せつけられて、僕のさもしい情慾は愈々残酷に鞭うたれた。僕は焦せりはじめた。けれども、幸子さんは、僕が思った様ないたずら女ではなかったらしく、そんな機会はいつかなやって来そうもなかった。その中に僕の病気は次第に悪くなった。僕の罰当りな悪だくみそれ自身が、病勢を募らせる有力なる原因だったことは云う迄もない。秋口に入って、僕が寝起にも自由を欠く程の有様になってから、幸子さんは泊りがけで看病に来てくれたが、併しそれと同時に、最早や単に情慾なぞと云う生やさしいものではなく、もっと執拗な純然たる復讐の形の下に、たとえ破れかぶれであろうともこの目的を果さなければならないと決心するに至った。僕は到頭或る晩のこと、四辺に幸子さんの外誰もいない時を見計って、幸子さんに向って、僕は久しい歳月の間一時だって幸子さんを忘れたことがなく、どんなに恋しがっていたかを、泪ながらに打ち明けた。ところが、僕がくどくどと掻き口説くのを黙って聞いていた幸子さんは、いきなり、僕の、熱のためにカサカサ乾いた唇へ接吻したではないか。そして――ごめんなさいね。でも、今では、あたし、あんたよりも晃一さんの方が好きなんですもの。」とそう云うのだ。僕は胸を轟かせながら、あらためて云った。――それは僕にだってよく解っている。それに僕はこれから先ほんの僅しか生きられない人間だ。決して、兄貴を振捨てて、縒を元へ戻してくれと云うのではない。それどころか、こうして幸子さんに看護《みとり》されて死ぬことが出来るのを、何より嬉しく思って感謝している位だ。が、そこで、せめてその上の我儘な願と云うのはたとえ仮初であるにせよ、幸子さんが自分の天地《あめつち》をかけての恋人であると信じながらあの世へ行けたなら、どんなにか幸せであろうかと思うのだ。ねえ、お願だから、どうかもう一度昔
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