た。……ところが、やがてお前の病気が重って、幸子は泊りがけで看護に行き度いと云い出した。僕は直ぐに賛成した。僕は女中の一人をスパイに使ってお前達を見張らせた。すると果せる哉、どうやらお前たちが人目をしのんで、接吻したり抱擁し合ったりしているらしい気配があると云う報告が来た。もとより、これがお前の仕組んだ芝居で、可哀相な幸子はただ死にかけたお前に対する憐憫《あわれみ》から心にもない一役を演じたに過ぎないなぞとは、知るべくもなかったのだ。僕は、自分でじかに、お前たちの不仕だらを目撃したいと思った。そこであの日は金曜日だったが、わざと誰にも知られないようにして一日早く出かけて来た。僕は先ず、お前の病室や裏庭のよく見晴らせる松林の中に入って、そこから双眼鏡で様子を窺った。折よく庭さきと縁の上とで親しそうに話し合っているお前たちの姿が映った。お前たちは、やがて何か一口二口云い合いをしたかと思うと、矢庭に幸子が走り出した。お前もあわただしくその後を追った。幸子は裏木戸を開けて、僕の隠れている松林へ向って一散に走って来た。僕は、お前たちに見つからないように素早く松林の奥深くかくれた。ところが、しばらくすると断崖の方から鋭い幸子の悲鳴が聞こえた。続いてバタバタという騒々しい足音と共にお前がひどく狼狽しながら息を切らして姿を現わすと、再び別荘の方へ走って行くのが木の間がくれに見られた。僕は直ぐに事態の容易ならぬのを察して、幸子の悲鳴のした方へ飛んで行った。すると果して、幸子は高い断崖の途中に危くぶら下っているのではないか。僕は大声で助けを呼ぼうとしたが止した。そして急いで松林を出ると、とっつきの百姓家の納屋に忍び込んで、有り合せた井戸綱を一束抱えてとって返した。僕はその綱を手近の木の根に縛りつけて、それに縋りながら、幸子のところ迄首尾よく降りることが出来たが、さて気絶した幸子の顔を見ると俄かに気が変った。――わざわざこんな不貞な妻を助けるなんて、何と云う愚なことだろう。女を殺してその姦夫を殺人罪に陥れてしまえば、それでいいではないか。旻自身が既に彼女を殺したつもりなのだからこれ程容易な話はない。ここで、彼女の生命を助けたりすることはむしろ神様の思召を無にするにも等しい。僕はそう覚悟をきめると力任せに、彼女の体を蹴とばした。彼女はパジャマの片袖を松の枝に残したまま、真逆様に白い波の砕け散っている岩の上に落ちて行った。僕はそのパジャマの袖を取って、それを崖の上に置いて、如何にもそこで幸子とお前との間に格闘でも行われたように見せかけて、その筋の発見を早めようかと思ったがなまじそんな細工をして、お前自身に第三者の介在を気付かれては却って困ると考えて、止めた。僕はそれから、綱をもとの百姓家へこっそりと返して置いて、すぐに汽車に乗って家へ帰った。停車場では降りる時も乗る時も、あらかじめ何時もの僕とは服装を更えて、黒眼鏡までかけていたので、駅員達に見咎められずに済んだ。僕は家へ帰ると、早速、幸子の名宛で別荘へ遅れる旨の電報を打った。決してアリバイにはならないけれども、稍それに紛らわしい効果を持たないでもない。そして翌日になって幸子変死の電報に接して倉皇とした風で、別荘へやって来た。ところが、お前は、殆ど意識不明な程の高熱で、呻吟していた。僕はお前が、前日縁先で、幸子と口論してその後を追ったと云う廉で、幸子殺害の容疑者として拘引されている位に考え、そうであったならば、僕はお前と幸子の関係を説明して、婉曲にお前の有罪を立証する役に立つつもりだったのだが。しかも、幸子は過失死と断定されてしまっていた。僕は少し位不細工でも、たとえばパジャマの袖を崖の縁へ置くなりして、歴然と他殺の証跡を捏造して置くべきだった。僕は少からず失望した。だが、僕はもう一度、考え直した。……瀕死の病人を殺人罪に陥れたところで、しかも彼自身がそれを明らかに意識している場合、実際のところ何の甲斐もない話ではあるまいか。それよりも、むしろ幸子の夫である僕が、彼の犯罪を悉く知っているばかりでなく、彼が不覚にも成し遂げなかった目的を、代って果してやったと、打ち明けた方が、余程効果のある趣向ではないだろうか……」
 旻は低い呻き声をあげた。
 ――兄さん、幸子さんは、ただお芝居をしただけなんだ。幸子さんは兄さんだけを、真実愛していたんだ。それを兄さんは知りもしないで……」旻は激しく咳入った。そして白い枕の上に真赤な血を吐いた。
 ――旻、僕の云い度いと思ったのは、併しそんな意味のことではないのだ。ねえ旻や……」晃一は弟の背中を、そう云いながら、やさしく撫でてやった。

 7

 それから、一週間程経って旻は死んだ。晃一は、その忌しい別荘にいることが堪えられなくなって、都へ引き上げることにした。それで晃一
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング